古さと納税

能登半島地震が起きてからひと月以上が経った。

「寄附金を送り、しばし待つ」

復旧期における、たぶんこれが一般人にできる最良の支援だろう。最新版のボランティアの作法といっていいかも知れない。

だからと言って、すぐに現地に行くなというつもりはない。あの惨状を見て、誰かを助けたい、何とかしたいという衝動は当然だし、簡単に抑えられるものでもない。中には“一番槍”を誇示したいだけのような人や団体もいるだろうが、世の中には、そういう直情で動く(動ける)人によって助けられている面もきっとある。それと、やっぱり見える人には見えていますよ、直情の中身は。

さて、災害が起きて最も頼りになるメディアはやはりNHKだった。大津波警報が出た際に物議を醸したアナウンサーの絶叫も、ふり返れば正しかった。対象は全国の視聴者ではなく、今あの場にいる誰か。公平公正を旨とするNHKが、情報ではなく情で訴えることをしたということに意義がある。

しかし、そんなNHKが義援金(寄附金)に関しては、発災直後からおかしい。「ふるさと納税」を推しまくっている。私の記憶が確かなら、昔は、定番の日本赤十字社かNHKの各放送局が行う義援金募集を紹介していた。

今朝の『あさイチ』に至っては、実際の「ふるさと納税」の画面から義援金を送る方法を時間を割いて丁寧に紹介していた。

・支援する自治体を直接選べる

・「代理寄付」によって被災自治体の事務を減らせる

ことが、利点とのことだったが、ちょっと待って欲しい。

そもそもふるさと納税は、寄付者が住んでいる自治体に納めるはずの税金が寄付先に流出してしまうため、寄付元の住民が不利益を被ることになりかねない。それを分かってて推すの?だれかが犠牲になるかも知れないのに??それと、返礼品を作れない被災地は経済効果も期待できないよ?

あと、代理寄付が被災自治体の負担軽減になるって話も、そもそも代理寄付が必要になるような仕組み自体がおかしいんじゃないの?そこが変わるように世論に訴えかけるのが、ナンバーワンメディアとしての役目ではないの??

過去にお世話になった自治体が代理寄付で恩返しっていう(感動)ストーリーに乗っかっている感じも気になったし、今頃は『クローズアップ現代』とかでやる準備してそう。もし、私の認識が間違っていたならごめんなさい。

歳を取って保守的になったせいで新しいやり方を批判している自覚はあるけれど、間に人が入れば取り分が減る、なのに入りたい・入れたい奴がいる。という、古よりの教えは語り継いでいきたいと思います。

 

 

おみくじ2024

なんだこれ…
能登半島震度7に始まり、羽田空港での航空機衝突事故、その後も驚くようなニュース。どうなってんだ令和Japan。

ja.wikipedia.org

近所や親戚からの訃報も続いていて、次は誰だろう、、、私か?などと考えてしまう。
これではとても初詣でる気分ではない。いやいや、こういうときのための神様でしょう?

というわけで、3日に行って来ました、いつもの神社へ。雪は遠くの山に見える程度。初詣日和だ。
昨年、おみくじの改悪があり、散々で不満を書いたのだが、やはりここがmy sweet神社。

meganegadoushita.hateblo.jp

今年は元のおみくじに戻っているのでは?との淡い期待は一瞬で裏切られたものの、こうしてお参りできただけで有り難いと思わなければならない。

神様は告げた。

「今年のお前は大吉だよ?」

この神社では、何度か大吉を引いたことがある。
子どもの頃、母になぜ大吉なのに全てが良いように書いていないのか尋ねると、

「それはな、良いことばかりで調子に乗り過ぎるとアカンからそう書いてあるんよ。」

とのこと。

実際、過去に引いた凶や末吉にはドンマイ的なことが書いてあり、そこに機微、いや神を感じたものである。

ではこの改悪後の初の青い大吉から、何を感じたらいいのだろう。

「大勝負に出ろ」とか「理想を追い求めろ」って…罠かよ!

と思わなくもないが、年明けから悲しいニュースばかりで、自分が弱気になっているのは確かである。

テレビの向こうの人が死んで、なぜに自分は生きているのか。真面目に頑張っている人が死んじゃって、いつもくすぶっているような自分が生きている。結局は運。努力の意味すらわからなくなる。

もう一つ、別のところで引いたおみくじ30円。

そう諸行無常。

「思い通りの今日や明日は来ないからこそ、無価値であろうと期待と自信を持ち続けるしか道はない。」

そんなこと、被災地の人にはとても言えないが、自分が強気でなければ彼らを支えることも叶わないだろう。

今年のおみくじは、当たりだな。

うさぎおーいしくらのすけ

卯年だ今年は跳ねるぞピョーン♩と浮かれていたら、もはや年末討ち入り殿中でござる。あっという間だね、かあさん。

1ヶ月に1本は記事を書くつもりでいたのに、今日でやっと6本目。書く気はあっても、暇がなk、、、言い訳だね。

だからというわけではないけれど、いくつになっても何かを続ける人の凄さがわかるようになってきた。「好きこそものの上手なれ」というけれど、子どもの頃から周囲の「すごいね」「面白いね」をモチベーションにしてきた人、特に仕事とした(してしまった)人なんかは、中高年になってからけっこう苦しいんじゃないだろうか。

いやほんと、気力体力、時間の不足を補うことができなくなってきて、やがて自分の才能に疑問を持ち始めた時にはもう、おそかりし由良之助ですよ。

結局、根底に自分の“好き”がないと、自分があんなに嫌っていた惰性か内輪ノリで生きていくことになるんだろう。昨今の“推し”活ブームはそれを補うものになっていくだろうか。

というのも、近頃、自分でも驚くくらい言葉が出てこない。必死に繰り出した言葉も文章としてつながらないことが多くなり、“好き”なはずの「書く」に自信がなくなったきた。

以前は、かつてのベストセラー作家が権力にすり寄ったり、新世代のお笑い芸人と呼ばれた人が知識人を気取り出したりするのを見ると怒りに似た感情しか沸かなかったが、今では同情の割合が増してきた。それに、なんだかんだ批判しても、彼らのような人たちは、アドバンテージを活かしてしぶとく生きていくのだろう。

さて、私はどう生きるか。

まだ腹は切らぬぞ。

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これ三橋美智也さんが唄っていたのか。知らなかったです。


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科学と法と権力と

福島第一原子力発電所事故後に発生している放射性物質を含んだ(汚染)水のうち、トリチウム以外の放射性物質を安全基準を満たすまで浄化したいわゆる「処理水」の海洋放出の件、あれどう思います?

www.meti.go.jp

www.bbc.com

中国政府の猛反発について、日本側が「IAEAのお墨付きもらってるから大丈夫!」とか「中国人、非科学的アルよ!」とかいう気持ちはわからないでもない。福島第一原子力発電所由来の(汚染)水を安定した方法で減らすためには、“処理水”として海に流すのが現実的だからだ。しかし、これは今の日本というか世界の科学技術の敗北である。

誰も公には口にしないが、何年待ったとしても地元の同意が取れることはない。あとは政治的にどう折り合いを付けるか、それしかないとわかっていながら、これまで先延ばしになってきた。

そこは“外交の岸田”である。地元がいつまでもウンと言わない?ならば、国際社会の同意を取ればいいじゃないか!というわけだ。岸田首相が評価されるとしたら、とにかく“決断”をしたという一点に尽きる。

だから、科学の敗北と地元軽視を露呈した今回の処理水の放出は、現実的な判断だったとしても決して誇れるものではないはずだ。

中国に科学的根拠や他国の同意を突きつけて勝った気になっている人は、これで各国が原発事故に限らず何かあった場合に、海に流しても良い前例になり得ることをどう思っているのだろうか。中国は日本を凌ぐ軍事・経済大国であり原発大国だぞ?その時、ちゃんと「いいよ!」って言える?

それよりなにより、私がずっとモヤモヤしているのは、海は誰のものかということ。

普段、浜辺の掃除もしない人が決めちゃっていいわけ?ドヤ顔でだよ?ごめんなさいのひと言もなしにだよ?

科学?法?国際協調?うるせーよ。

いやほんと、どいつもこいつも先ずお天道様に謝れって話だよ。

それが嫌なら海に持ち主の名前書いて貼っとけよ!

手をつなごう キスはしない

あれはまだコロナ禍前。日本中がインバウンドインバウンドしていた。

京都は訪れる度に外国人が、というか日本人も含めて観光客が増えていた。

タクシーの運転手さんが言うには、「昔は夏はオフシーズンやったんですけどねー。今は年中多いですわ。」とのこと。忙しくてなによりだと思ったのだが、外国人観光客は、巨大なスーツケースを持ち込むので、今までのようなセダン型の車輌のトランクでは入りきらず、断るしかないらしい。会社にもよるそうだが車輌は運転手が自分で購入しており、そう簡単に買い換えるわけにもいかず、「恩恵はあまりありませんどすえ。」とのことだった。

さて先日、いつもの用事で京都に行った。先月よりも人通りは落ち着いている感じだ。道路は思ったより混んでおらず、電車もバスも比較的空いていた。「全国旅行支援」のお得感がなくなり、国内旅行客が減っているのかも知れない。

それでも着実に増えているのが、駅前のホテルと大きな荷物が載せられるタイプのタクシーだ。コロナ禍で観光頼りの危うさを感じた人なら、再びインバウンドでカットインなんて躊躇するだろうが、日本人の忘れっぽさが幸い(災い?)しているのか、とにかく“勢い”を感じる。あの運転手さんもこれに乗じて車輌を新しくしただろうか。

絶景や文化財なら地方にも沢山あるはずだ。

しかし、圧倒的に「俗」が足りない。美しいものに触れ、汚れて帰る、それが観光の“真理”。元も子も無いことを言えば、京都や浅草、鎌倉を好むような人が田舎まちに向かうことはないだろう。“引力”が違う。

昼下がり、この車窓からの眺めを簡単に独り占めできてしまうことがそれを証明している。

この辺りまで来ると、乗ってくるのは地元沿線の中高生くらいだ。

反対側の窓に目をやると、いつの間にか通路を挟んで隣りの席に男の子が座っている。名前入りのジャージに短パン姿、膝の生々しい擦り傷がいかにも部活帰りだ。

懐かしい。私にもそういう時期があったよ。

UVケアなんて言葉、知らずにただ毎日走っていた。

で、たまに手紙をもらったりしてさ、でも今は部活に賭けてるから、、ゴメン。

みたいなさ。そういうことが、令和のキミたちにもあるの?

視線を湖に戻し、そんなことを考える。完全に厨年病だ。

次の駅で中高生の多くは降りて行った。あの子も降りたようだ。

電車がゆっくりと動き出し、改札へ向かう降客に追いついてゆく、、、、

ん?あの短パンはさっきの子?

あれ?女の子が振り向いて、手を伸ばしたぞ?

アイシテル?のサインかよ???

彼は即答した。

驚くほど爽やかに手を繋ぎ、並んで歩く二人。

貴様それでも日本男児か!私の方が照れてしまう。

すると突然、女の子が手に持っていたファンタグレープを空に向かって放り投げた。

今度はタメシテルのサインかよ!

どうする!?彼氏ぃぃーーーーーーーーーーー

加速する電車、止まらない鼻息とSentimental。

答えは車窓に消えていった…。

モヤモヤを抱えたまま目的の駅を降りたところで目に付いたのがこれだ。

チェリオの『スィートキッス』。

1982年の発売以来ずっと“未知の味”で売っているが、関西では未知やすえくらい既知の存在である。

懐かしい。

そして、「未知の味」「スイートキッス」「微炭酸」これらの単語すべてが、女の子が投げたファンタグレープの行方を知っているように思えた。

私も随分前に飲んだ記憶はあるのだが、どうしても味が思い出せない。

ここ数年、白湯の入ったマイボトルを持ち歩いているような私には、自販機のボタンを押すにも勇気が要る。

記念写真を撮り、期待を込めて一口飲む。

…あぁ。

二口目にはもう、甘ったるさで気持ち悪く…。

それでも残り半分までは頑張ってはみたが、持続不可能、吐きそうGs。ごめんなさい、棄ててしまいました。

結局、身に染みてわかったのは、もう昔には戻れないということ。

今の自分には若い子を遠くから眺めて思い出し笑いを浮かべるくらいのキモさが合っている。

これも「温故知新」っていうのかな。言わないか。