復興マナーをキミに

阪神淡路大震災(1995年) が「ボランティア元年」なら、東日本大震災(2011年)は「組織化元年」。
そして今年元日に起きた能登半島地震は、「マナー化元年」と言えるかもしれない。

 

阪神大震災が起きたとき、アルバイト先(震源地から40~50㎞ほどの距離)にいた。というか酔い潰れて寝ていた。厨房では棚から食器がいくつか落ちて割れたそうだが、目を覚ましたときには既に片付けは終わっていた。
自転車で自宅のワンルームマンションに戻る途中、古いビルの外壁が剥がれているのを見かけはしたが、街は特に変わりないように感じた。
私の部屋は5階だ。エレベーターは普通に動いていた。部屋に入ると、ユニットバスの床には『ブルーレットおくだけ』の青い水がこぼれ出ていた。

数日経った頃だろうか、大阪・西成のホームレスが次々に被災地神戸へ向かったらしい。
なぜにわざわざ?人助け?
いいえ。答えは、「行けば“タダメシ”が食えるから」です。

そんな話をバイト先の先輩Aから聞いた。
彼は被災地の状況が入ってくるようになると、かき集めた支援物資を自分の車のトランクに乗せ、被災地の知人の元へ向かった。そして、帰ってくると誇らしげに体験談を語った。

私は、そんな彼に負い目を感じつつも、何もしなかった。金もない、車もない、そんな自分には何もできないと思っていた。

さて、“ホームレス大移動”の話であるが、もちろんデマである。聞けば誰も目撃すらしてはいなかった。ホームレスへの偏見と被災地への“熱い”思いが話を信じやすくさせたのではないだろうか。

そう言う私も、当時は「ほんまかいな7:あるかもな3」くらいに思っていたので、不適切にもほどがありました。申し訳ございません。

東日本大震災が起きたときは、私は地元の職場にいた。自分の想像を遙かに超えた津波は、後に被災地に行き、実際の被害を目の当たりにしてもからもどこか夢の中の出来事のようだった。
そして、津波と同じくらい人間の力の大きさも感じた。全国から公務、ボランティアを問わず応援が集まり、割り振られた役目を果たしては帰って行く。ひとりひとりの力は小さくても、皆の力が合わさることで確実に状況が改善されていく、一種のダイナミズムを感じた。世界の国々からもメッセージや義援金が届いた。
(自分が何を果たせたのかは置いといて)ちょっと日本スゴくない??
…これも後に不適切だったことがわかる。

 

能登半島地震が起きたとき、私は自宅近くで揺れを感じた。そして、防災スピーカーから大音量で流れる人生初のリアル津波警報を聞いた。
しかし、ここは津波浸水想定区域ではない。家に戻り、チャンネルはNHK。画面はアナウンサーの絶叫が虚しくなるほど静かな海を映していた。
東日本大震災の津波の映像をリアルタイムで見ていた冷静なる私は、テレビのボリュームを下げ、津波の到達状況のモニタリングを続けた。地震時に計器が正常に動作するとは限らないことを考慮しても、東日本大震災級の津波はないだろう、そう判断した。

実は、津波の高さが予想よりも低かったのは、地震で起きた海底の隆起が一定の防波堤の役割を果たしたらしいことなど、そのときは全く思ってもみなかった。
つまり、中途半端な知識で地震や津波をわかった気でいたのだ。結局私は、東日本大震災で広く知られることになった正常性バイアス全開状態だったのだろう。

さて、山沿いに住む我が家が傍観者を決め込んでいた頃、海沿いに住んでいた知人一家は、車に乗って高台の避難所に避難していた。そして道路は大渋滞になっていたそうだ。また別の知り合いの老夫婦は、「どうせもう死ぬから逃げなかった」そうだ。またまた別の知人は、「家に猫がいるから」と逃げる選択肢はなかったと言っていた。

過去の災害を教訓に避難計画をつくり、防災訓練も増やしたはずが、実際に事が起きればやはり筋書き通りには行かないことを改めて思い知らされる結果になった。

一方、被災地への支援はどうだったろうか。
私のイメージでは、能登半島地震でも東日本大震災のときのように、まずは瓦礫が撤去され道路やインフラが復旧、全国から次々に支援が入るものと思っていたが、そうはならなかった。元日に地震が起きたことを差し引いても、復旧⇒復興のペースが遅い感じがする。
悪く言うつもりはない。しかし、熊本地震と比べても被災地を助けようという雰囲気が醸成されていないというかなんというか、、盛り上がっていない感じがするのだ。

被災地の映像に慣れてしまったからなのか、「奇跡の一本松」や「熊本城」のような復興のシンボルがないからなのか、それとも私が勝手に物足りなさを感じているだけなのか…。

ひとつ気になっているのが、今回の能登半島地震では、早い段階でボランティアや支援物資の受入が制限されたことである。もちろん、支援者の行為が逆に現地の復旧・復興の妨げになるからという理由はわかる。

しかし、かと言って、代わりに義援金の窓口が早期に立ち上がるわけでもなかった。慣れた人は「Yahoo!ネット募金」などの寄付先をインターネットで見つけただろうが、それ以外の不慣れな人には、気持ち(お金や物資)の持って行き場がなかったのではないだろうか。

私の感覚では、NHKや行政機関は自ら口座を開設したり直接募金をせずに「ふるさと納税」を積極的に勧めていた。金融機関は、被災地への寄付でも異なる金融機関への振込は手数料を取る対応をしていたように思う。
特に「ふるさと納税」については、“代理寄付”のメリットが強調されていたが、わざわざ他の自治体の職員にやってもらってまでしないと被災地にお金が届かない仕組みってどうなのよ?それを美談みたいに扱うなんてもっとどうなのよ???

 

今回の能登半島地震では、被災地に何かしたい気持ちを持っていても、「素人は行くな」「物は送るな」の“待て”状態。マナー違反はネットで晒され、とことんまで叩かれる。人助けってこんなにリスク高かったっけ?
それならばせめてお金をと思っても、どこに持って行けばいいのかわからない。
結果的にしばらくテレビで“専門家”の現地入りを眺めるだけになってしまった人が多くいたのではないだろうか。

「鉄は熱いうちに打て」の格言どおり、その間に支援の熱が冷めてしまった人がいても不思議ではない。どんな形でも早くから関わりを持てれば、関心は持続するのが人というもの。

大災害という非常事態に、十分な装備と準備を整えた“選ばれし者”が現地に入ること、そして物資は現地のニーズと必要量を十分に満たしたものであるべきというのは、決して間違いではないが、被災者と支援者以外の「その他大勢」を増やしてしまわないだろうか。

東日本大震災以降の組織化された支援の力は私も知っている。国の考えるこれからの支援は+デジタル化という流れなのだろうが、それだけで多くの人を巻き込み、被災地への関心を持続させることはできないだろう。
ここに阪神淡路大震災のときのような個の力への揺り戻し、、つまり組織的な支援の中に「オッス、オラ悟空。最低限の装備と寝る場所は用意すっから、自信ある人は来てくれよな!しんぺーすんな、なんとかなっからよ!」的な、被災地への“衝動”を抱える人たちへのわかりやすい受け皿づくりが必要ではないだろうか。

 

以上、私のこぼれ出た衝動を文字に変えて。

 

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追記)
4月6日に起きた台湾で起きた大地震の際、日本赤十字社を始め、能登半島地震の時よりも早く募金活動が立ち上がっていたように感じた。改善されたのかも知れない。

www3.nhk.or.jp

古さと納税

能登半島地震が起きてからひと月以上が経った。

「寄附金を送り、しばし待つ」

復旧期における、たぶんこれが一般人にできる最良の支援だろう。最新版のボランティアの作法といっていいかも知れない。

だからと言って、すぐに現地に行くなというつもりはない。あの惨状を見て、誰かを助けたい、何とかしたいという衝動は当然だし、簡単に抑えられるものでもない。中には“一番槍”を誇示したいだけのような人や団体もいるだろうが、世の中には、そういう直情で動く(動ける)人によって助けられている面もきっとある。それと、やっぱり見える人には見えていますよ、直情の中身は。

さて、災害が起きて最も頼りになるメディアはやはりNHKだった。大津波警報が出た際に物議を醸したアナウンサーの絶叫も、ふり返れば正しかった。対象は全国の視聴者ではなく、今あの場にいる誰か。公平公正を旨とするNHKが、情報ではなく情で訴えることをしたということに意義がある。

しかし、そんなNHKが義援金(寄附金)に関しては、発災直後からおかしい。「ふるさと納税」を推しまくっている。私の記憶が確かなら、昔は、定番の日本赤十字社かNHKの各放送局が行う義援金募集を紹介していた。

今朝の『あさイチ』に至っては、実際の「ふるさと納税」の画面から義援金を送る方法を時間を割いて丁寧に紹介していた。

・支援する自治体を直接選べる

・「代理寄付」によって被災自治体の事務を減らせる

ことが、利点とのことだったが、ちょっと待って欲しい。

そもそもふるさと納税は、寄付者が住んでいる自治体に納めるはずの税金が寄付先に流出してしまうため、寄付元の住民が不利益を被ることになりかねない。それを分かってて推すの?だれかが犠牲になるかも知れないのに??それと、返礼品を作れない被災地は経済効果も期待できないよ?

あと、代理寄付が被災自治体の負担軽減になるって話も、そもそも代理寄付が必要になるような仕組み自体がおかしいんじゃないの?そこが変わるように世論に訴えかけるのが、ナンバーワンメディアとしての役目ではないの??

過去にお世話になった自治体が代理寄付で恩返しっていう(感動)ストーリーに乗っかっている感じも気になったし、今頃は『クローズアップ現代』とかでやる準備してそう。もし、私の認識が間違っていたならごめんなさい。

歳を取って保守的になったせいで新しいやり方を批判している自覚はあるけれど、間に人が入れば取り分が減る、なのに入りたい・入れたい奴がいる。という、古よりの教えは語り継いでいきたいと思います。

 

 

おみくじ2024

なんだこれ…
能登半島震度7に始まり、羽田空港での航空機衝突事故、その後も驚くようなニュース。どうなってんだ令和Japan。

ja.wikipedia.org

近所や親戚からの訃報も続いていて、次は誰だろう、、、私か?などと考えてしまう。
これではとても初詣でる気分ではない。いやいや、こういうときのための神様でしょう?

というわけで、3日に行って来ました、いつもの神社へ。雪は遠くの山に見える程度。初詣日和だ。
昨年、おみくじの改悪があり、散々で不満を書いたのだが、やはりここがmy sweet神社。

meganegadoushita.hateblo.jp

今年は元のおみくじに戻っているのでは?との淡い期待は一瞬で裏切られたものの、こうしてお参りできただけで有り難いと思わなければならない。

神様は告げた。

「今年のお前は大吉だよ?」

この神社では、何度か大吉を引いたことがある。
子どもの頃、母になぜ大吉なのに全てが良いように書いていないのか尋ねると、

「それはな、良いことばかりで調子に乗り過ぎるとアカンからそう書いてあるんよ。」

とのこと。

実際、過去に引いた凶や末吉にはドンマイ的なことが書いてあり、そこに機微、いや神を感じたものである。

ではこの改悪後の初の青い大吉から、何を感じたらいいのだろう。

「大勝負に出ろ」とか「理想を追い求めろ」って…罠かよ!

と思わなくもないが、年明けから悲しいニュースばかりで、自分が弱気になっているのは確かである。

テレビの向こうの人が死んで、なぜに自分は生きているのか。真面目に頑張っている人が死んじゃって、いつもくすぶっているような自分が生きている。結局は運。努力の意味すらわからなくなる。

もう一つ、別のところで引いたおみくじ30円。

そう諸行無常。

「思い通りの今日や明日は来ないからこそ、無価値であろうと期待と自信を持ち続けるしか道はない。」

そんなこと、被災地の人にはとても言えないが、自分が強気でなければ彼らを支えることも叶わないだろう。

今年のおみくじは、当たりだな。

うさぎおーいしくらのすけ

卯年だ今年は跳ねるぞピョーン♩と浮かれていたら、もはや年末討ち入り殿中でござる。あっという間だね、かあさん。

1ヶ月に1本は記事を書くつもりでいたのに、今日でやっと6本目。書く気はあっても、暇がなk、、、言い訳だね。

だからというわけではないけれど、いくつになっても何かを続ける人の凄さがわかるようになってきた。「好きこそものの上手なれ」というけれど、子どもの頃から周囲の「すごいね」「面白いね」をモチベーションにしてきた人、特に仕事とした(してしまった)人なんかは、中高年になってからけっこう苦しいんじゃないだろうか。

いやほんと、気力体力、時間の不足を補うことができなくなってきて、やがて自分の才能に疑問を持ち始めた時にはもう、おそかりし由良之助ですよ。

結局、根底に自分の“好き”がないと、自分があんなに嫌っていた惰性か内輪ノリで生きていくことになるんだろう。昨今の“推し”活ブームはそれを補うものになっていくだろうか。

というのも、近頃、自分でも驚くくらい言葉が出てこない。必死に繰り出した言葉も文章としてつながらないことが多くなり、“好き”なはずの「書く」に自信がなくなったきた。

以前は、かつてのベストセラー作家が権力にすり寄ったり、新世代のお笑い芸人と呼ばれた人が知識人を気取り出したりするのを見ると怒りに似た感情しか沸かなかったが、今では同情の割合が増してきた。それに、なんだかんだ批判しても、彼らのような人たちは、アドバンテージを活かしてしぶとく生きていくのだろう。

さて、私はどう生きるか。

まだ腹は切らぬぞ。

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これ三橋美智也さんが唄っていたのか。知らなかったです。


www.youtube.com

科学と法と権力と

福島第一原子力発電所事故後に発生している放射性物質を含んだ(汚染)水のうち、トリチウム以外の放射性物質を安全基準を満たすまで浄化したいわゆる「処理水」の海洋放出の件、あれどう思います?

www.meti.go.jp

www.bbc.com

中国政府の猛反発について、日本側が「IAEAのお墨付きもらってるから大丈夫!」とか「中国人、非科学的アルよ!」とかいう気持ちはわからないでもない。福島第一原子力発電所由来の(汚染)水を安定した方法で減らすためには、“処理水”として海に流すのが現実的だからだ。しかし、これは今の日本というか世界の科学技術の敗北である。

誰も公には口にしないが、何年待ったとしても地元の同意が取れることはない。あとは政治的にどう折り合いを付けるか、それしかないとわかっていながら、これまで先延ばしになってきた。

そこは“外交の岸田”である。地元がいつまでもウンと言わない?ならば、国際社会の同意を取ればいいじゃないか!というわけだ。岸田首相が評価されるとしたら、とにかく“決断”をしたという一点に尽きる。

だから、科学の敗北と地元軽視を露呈した今回の処理水の放出は、現実的な判断だったとしても決して誇れるものではないはずだ。

中国に科学的根拠や他国の同意を突きつけて勝った気になっている人は、これで各国が原発事故に限らず何かあった場合に、海に流しても良い前例になり得ることをどう思っているのだろうか。中国は日本を凌ぐ軍事・経済大国であり原発大国だぞ?その時、ちゃんと「いいよ!」って言える?

それよりなにより、私がずっとモヤモヤしているのは、海は誰のものかということ。

普段、浜辺の掃除もしない人が決めちゃっていいわけ?ドヤ顔でだよ?ごめんなさいのひと言もなしにだよ?

科学?法?国際協調?うるせーよ。

いやほんと、どいつもこいつも先ずお天道様に謝れって話だよ。

それが嫌なら海に持ち主の名前書いて貼っとけよ!