酒と泪とアセトアルデヒド【完】

 いち子は、インテリア関係の販売会社に就職した。一息つける場所を残しておきたかったのか、バイト先はすぐには辞めず、仕事帰りに来たりしていた。

 いち子の配属先のお店は、大阪の有名な商店街の中にあった。

 「へたっちょも、遊びに来てよ!」とよく言っていたが、私がそのお店に“遊び”に行くことはなかった。

  私は、就職活動の時期を迎えていた。当時は、テレビ局や新聞社に憧れていて、ダメだったら地元に帰って就職することになっていた。この頃の時系列をよく覚えていないのは、日々追われることが多かったからだろう。

 慣れ親しんだバイト先は、店長をはじめ顔ぶれが随分と入れ替わった。不思議なもので、お世話になった人たちがいなくなると、自分の居場所はここではないような気になってくる。単に「辞めたい」ということではなく。

 

 ついに私にも、バイト先を去るときが来た。

 やがてはこの街も。

 

 どのような経緯だったのかは忘れたが、バイト先“だった”場所の最寄り駅の前で、私といち子は二人きりでいた。夜だったと思う。

 お互いの近況報告などをしていたときだろうか、私はいち子に、近々地元に帰ることを告げた。

 いち子に驚いたような様子はなかったが、意外なことを私に言った。

 「◯◯がな、いち子、もうへたっちょと付き合ったら?って言うねん。」

(◯◯は、いち子の同級生で大親友の女の子。私はほとんど話したことがないが、バイト先にも何度か連れてきていた。Kさんとのこともずっと相談していたらしい。)

 「今更かーい!」とツッコミたくはなったものの、これが彼女の精一杯の告白なのかも知れないと思った。

 しかし、私は決められなかった。

 これは今も続く、私の悪い癖だ。こういうときに考えなくてもよいことを考えてしまう。始まってもいないのに、問題ばかりが浮かぶのだ。仕事のこと、物理的な距離のこと、あの子のこと、、、などなど。済んだ話とは言え、Kさんのことも消化不良のままだった。

 「今は無理やけど、もし30過ぎて二人とも独りやったら、結婚でもするか!」

 私は冗談めかして答えた。これをいち子がどう受けとったのかはわからない。

 「めっちゃ先やん!」

 この頃の二人にとってみれば、30歳は30光年先くらいのイメージだった。結局このやりとりは、いつもの掛け合い話の中に埋もれていった、、、

 

 「ほな。またいつか、ここでな!」

 「うん!」

 お互い笑顔だったように思う。

 このとき私は、二人にはもう違う時間が進んでいることを感じた。

 

 その後、私は地元に戻ったのだが、転職したり、色々あったりで、光のように歳は過ぎた。その間、一度もいち子と会うことはなかった。

 会うことはなかった、、のだが、実は何度か会いに行ったことはある。いち子が、勤めている(はずの)お店がある大阪へ“遊び”に、ということで。私は、不自然に店の前を行ったり来たりしたのだが、どうしても中に入れなかったのだった。

 

 私は、いち子のことをずっと一途に想っていたわけではない。しかし、あの日の約束(のようなもの)は、常に頭のどこかにあった。

 30を過ぎた頃、私は確かめたくなった。中二病?否定はしない。

 

 いち子のケータイは変わっていなかった。

 休みに京都で会う約束をした。

 

 久しぶりに見るいち子は、さすがに見た目は年齢相応になってはいたものの、私の顔を見るなり「へたっちょ!元気にしてた!?」と昔と変わらない調子で駆け寄ってきた。

 駆け寄ってきた、、ら、と私は期待して待っていた。

 

 実際のいち子は、見た目はあまり変わっていなかった。

 「あんまり変わらへんね。」

 私のことも、そう言っていた。

 しかし、最後まで私のことは、苗字に“くん”付けで呼んだ。

 子どものように、思いつくままに話しかけてくることはなく、私の反応を確かめてから話しているようだった。二人のテンポは、ぎこちないアダージョのようだった。

 街をぶらりとしたあとに入った喫茶店で、あれから彼女のお父さんの会社が倒産したと聞いた。いち子も随分と苦労をしたようだ。

 ちなみに、大阪のお店は異動になって、私が行った頃はもうそこにはいなかったらしい。そんな話をしていたかと思うと、急に自分の妹の自慢話を始めたりするところなどは相変わらずで、懐かしい気持ちにもなったが、会話が途切れると私はチラチラと時計を気にしていた。

 あの店には、随分と長く居たような気がする。

 外に出て、二人は駅まで一緒に歩き、別々のホームから電車に乗った。

 

 「昔、最後に会ったときのこと覚えてる?」

 

 近況報告や昔話はたくさんしたけれど、その言葉はついに出なかった。私からも、いち子からも。

 

 それから、何度か年賀状のやりとりがあったりもしたのだが、やがてどちらからか無くなり、今は音信不通だ。

 

 先ほど、ケータイを確認したら連絡先はそのまま残っていた。

 こうして物語に書くまで、そんなこともすっかり忘れていた。 

 

 元気か?

 今年も年賀状は出さへんけど、へたっちょは今日も便器です!

 ほなね。風邪引くなよ。


河島英五 【Live】 酒と泪と男と女

 

 以上、酒と泪とアルデヒドでした。