乗らない日記

 もうすぐ1年になる。愛犬が死んでから。

 記憶というのは、何かに紐付けられているという。お正月は確かにおめでたい気分にはなるのだが、1月のこの寒さは、どうしても彼が亡くなる間際の様子を思い出してしまう。私は、ずっと彼の心臓のところに手をやっていたのだが、眼から精気が失せたあとも、しばらく鼓動があった。止まったと思ったら、急に動き出したり、まるで臓器が独立した意思を持ったかのようだった。

 しかし、やがてそれも少しずつ弱くなって、、消えた。

 これがもし病院なら、モニターの数字や波形を見ながら、ああ、死にそうだとか、ああ死んでしまったとか、そういう感じなのだろう。

 18歳という長寿ではあったのだが、安らかに眠るように逝くということはなかった。最後の数日は、明らかに苦しそうで、何度か正気を失っていた。外でのんびり昼寝しながら息を引き取ってくれれば、言うことはなかったのだが、最後にガツンと生き様というか死に様というか、強烈なものを見せつけられてしまった。声を掛けたり身体をさすったりしながら、この世での苦しみから解放してやりたい、早くあの世で楽に暮らして欲しいと思った。どうか死なないでくれ、ではなく。

 先ほどから「死んだ」とか「亡くなった」とか書いているが、仏教には「命日」という言葉がある。命の日。お釈迦様がつけたのか、誰がつけたかは知らないが、そのセンスには脱帽だ。振り返ってあの日は、まさに命日だった。

 確かにあの日、肉体は尽きたが、記憶と共にこうしていつでも息を吹き返す。そして、どうにも気分の乗らない私の筆にも命を吹き込むのである。

 そして今日。1月17日、多くの命がまた生まれていることだろう。

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