どうして、知らない=ボーっと生きてることになるの?
どうして、みんなチコちゃんにヘラヘラしてるの?
ていうか、なんで子どもに言わせてるの?
NHKのTV番組『チコちゃんに叱られる』に対する疑問への続きです。
まずは、前回ご紹介した『それゆけノンタック』、主人公ノンタックとおばあちゃんの会話をご覧ください。(リンク先に動画あり)
(※以下抜粋)
婆 >ノンタックはね、本当の名前は「タック」って言うんだけどもね、も~、ホントにのんびり屋さんでしょ?だから、のんびり屋のタックで、“ノンタック”って呼ばれてんのよねっ。」
ノ >ん~。でもさぁ、のんびりしてるっていうことはですよ、そのぶん、いろんなことをよぉ~く考えたり、よぉ~く見たりできるってことだもんねぇ。
婆 >まあ、あんなこと言っちゃって!
ノ >うふっ
今ここでノンタックが『チコちゃん』に出演したら、おそらく「ボーっと生きてんじゃねーよ!」の洗礼を浴びるでしょう。ついでに、お婆ちゃんも「ボーっとロマンスグレーしてんじゃねーよ!」とか言われちゃうんじゃないでしょうか。
「総合/教育(Eテレ)」の違いはあったとしても、昭和の終わり頃から平成にかけての30年余りの間にNHKは、、というか世の中は、“のんびり” が“ボーっと”になったのです。
次に、『それいけノンタック』と同じ頃に、NHK教育で放送(1984~1992年)されていた『たんけんぼくのまち』をご覧ください。オープニング曲の歌詞に、これまた今とは違う空気が感じられます。
(作詞:山川啓介 作曲:福田和禾子 歌:坂本九)
しらないことが おいでおいでしてる
出かけよう くちぶえふいてさ
びっくりしようよ あららのら?
しらべてなっとく うんそうか!
おもしろ地図をしらべよう
たんけん はっけん ぼくの町
ここでひとつ確認ですが、番組の主人公「チョーさん」は大人です。いい年して、知らないことだらけで、お調子者で、オッチョコチョイで、好奇心の強さだけは子どもままの大人なのです。
こんな人でも世の中やっていけるんだ…。チョーさんを見て、なんだか安心した子どももいるのではないでしょうか。(私です)
私は、『チコちゃん』の奥底には、「いい年して、そんなことも知らないのか!」が流れていると思っています。
しかも、その“そんなこと”の中には、必ずしも知らなくてもよいものや、諸説あるのに決め付けなものが混じっています。
「雑学」や「ウンチク」の一部を切り取って「常識」のように紹介していると言えるでしょう。ここが、『トリビアの泉~素晴らしきムダ知識~』との決定的な違いです。
「~素晴らしきムダ知識~」というサブタイトルにも表れているように、『トリビアの泉』の根底には、本来どうでもいいことをどうでもよく楽しもうとする精神が感じられます。
“知らない”ことで責められることはなく、紹介されたトリビアに喰い付こうが、無視しようが、それは受け手に委ねられていました。トリビアへの評価方法(=「へぇ」ボタンを押す)も絶妙でした。
『トリビアの泉』は、それまで「雑学」や「ウンチク」をステータスとしていた人たちから、“知”を解放してくれました。そして、もう(自分にとっての)ムダ知識に愛想笑いを浮かべながら付き合わなくていいという選択肢を私たちに示してくれました。
もうおわかりでしょう。「チコちゃん」の正体が。
そうです、あれは周囲の反発を抑えるために無垢な存在を祭り上げ、自らの意志を代弁させ、本人は裏で溜飲を下げる…、まさに“大人げない”存在なのです。
以上、『チコちゃんに叱られる』のチコちゃんは、羊の皮を被ったシャア・アズナブル、、じゃなくて、5歳の女の子の皮を被ったウンチクパワハラチ●コちゃんである説、いかがだったでしょうか。
私としては、うっかり8へぇくらい頂きたいところです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は、あの番組にナインティナインの矢部浩之さんが出演し、チコちゃんに向かって「なんでお前に言われなアカンねん。」と冷めたツッコミをしてくれる日を夢見ています。
(続く)