NHK朝の連続テレビ小説『わろてんか』、おぼえてまっか?
吉本興業の創業者である、吉本せいをモデルとした作品でした。
私はこれでもお笑いを愛してきた一人ですから、なるべく観るようにはしたのですが、正直なところ笑うとこなかったです。なんというか、全体的に炭酸の抜けたコーラ、いや、気の抜けたファンタジーでした。
『わろてんか』というタイトルも好きになれなかったのですけれど、今にして思えば、関西人の「わろてんか」には「許してね」のニュアンスが含まれていますから、これはこれで良かったのかも知れません。
それでこの“ニュアンス”って、言葉の裏にある辞書には載っていない人間の機微みたいなもので、私はその豊かさが、関西の笑いの豊かさであると信じてきました。そして、それは多くの人に通じる、と。
しかし、近頃自信がなくなってきました。
先月、大阪サミットの夕食会で、安倍首相がこんな挨拶をしました。
私には、エレベーターよりも、歴史認識に問題アリと感じたのですが、世間的には、「エレベーターが要らないなんて障害者への配慮に欠ける!人権侵害だ!!」という令和初の大阪城炎上案件になりました。
「これはもうシャレですよ。場を和ませるための」とし、「ただ、そのシャレがすべったということだと思う。だからちょっと(首相の)ギャグのセンスがなかったのかなと。ようはそういうことだと思う」と語った。
朝日新聞デジタルより https://www.asahi.com/articles/ASM6Z6HKPM6ZPTIL010.html
↑は、日本維新の会の代表、というよりも大阪のおっさん代表としての松井氏の弁ですけれど、この時ばかりは私も彼の意見に共感しました。
笑いの都大阪らしく、いいネタ用意した(してもらった?)んだけど、相手がガイジンなの忘れてたわ!みたいなことだったとしても、世間的には「んなわけあるかい!」のツッコミで済まされないのでしょうね。
あの挨拶は、NHKのテレビ中継と同時通訳を入れた日本語でのものでしたから、国内向けの演出もあったと思います。“エレベーター”以降、内容がひどく凡庸になるところからして、あの冒頭部分(つかみ)は、かなりの自信があったはずです。
あそこでウケなかったとしても、大阪のお笑いの知識が少しあれば、酒井くにお師匠の「ここで笑わな笑うとこないよー。」か、故 横山ひろし師匠の「笑えよ~。」で切り抜けられたのですけれど、やはりそこが、付け焼き刃の限界なのでしょう。
それにしても、どうせならエレベーターのくだりは、「1つだけ、おおきなミスを犯しました。 ちょんまげを置いていってしまいました。」で、隠し持っていたバカ殿様のカツラを被ってエイエイオー!くらいにしておけば、余計な敵をつくらずに済んだのに。三成なの?
というような具合に、何でも笑いでカウンターを狙いにくるところが大阪(関西)の良さでもあると思うのですけれど、安倍首相への世間の反応の厳しさに、正直なところ私はちょっと引きました。
彼に障害者への差別意識はなかった思います。そもそも、ウケることしか頭になかったので、差別にはなりません。ただの無知です。
みたいな、斜に構えた言い方も今の世の中では伝わりにくいし、求められてもいないのでしょう。自分も何だかんだで時代に取り残されていることに気付かされます。
そして、この度の闇営業に端を発した、吉本興業の一連の問題。
事の真相はそれこそ闇ですが、岡本社長の会見以降、彼への世間の見方が厳しくなっていることが、地味に辛いです。
1990年代~00年代のダウンタウンで育ったような人は、わかると思うのですが、岡本社長は当時彼らのマネージャーで、ダウンタウンのテレビ番組にブリーフ一丁で猫を抱きながら出演し、独特の存在感を見せていました。
私は笑った反面、こんな世界で働くのは絶対ムリだと思ったものでした。あれですよ、「何かオモロイことやれ!できへんのやったら、裸で踊ったらええねん!」みたいなあれです。
だけど、そうやって『ガキ使』の岡本社長や『笑ってはいけない』の藤原副社長、ダウンタウン周辺が文字通り「ファミリー」として、体を張って一時代を築いて吉本を全国区にしたのは事実で、それを無しにして語るのはフェアじゃありません。
これは偏見が入りますが、「雨上がり決死隊」も「ロンドンブーツ1号2号」も昔から漫才やコントの力はありませんでした。ここ10年ほどは、お笑い界をウォッチしていないのでわからないのですが、吉本興行の営業力や企画力がなければ、“芸人”としては生き残れなかったでしょう。
ここまで散々「あほ・ボケ・殺す」のツッコミと素人相手の“いじり”でやってきた人間が、パワハラて。いったいどの口が言うの?というのが私の率直な感想です。
その意味でも、実質トップの大崎会長と会社の盾となっている岡本社長のことを一方的に悪く言う気にはなれないのです。
特に、いきなり湧いて出てきたような〇〇コンサルタントや弁護士さんのご意見なんて、「そんなんこっちは分かってやっとんねん!」て話ですよね、たぶん。
話を吉本興業本体のことに移します。
1997年、吉本新喜劇が全国放送(TBS系)に進出しましたが、1年ほどで撤退しました。私も番組を観ていましたが、チャーリー浜さんに至っては、凍って死んでしまうのではと心配になるほどの寒さでした。わろてんか氷点下。
今ならわかるのですが、笑いに大人の事情を持ち込むと、必ずと言っていいほど失敗します、大阪人が欲を出したときは特に。それは、太閤秀吉の時代からも変わらない呪印のようなもの。
余計なお世話でしょうが、このまま事業拡大と中央志向を続けるのならば、過去を清算し、旧経営陣は刷新、本業以外に熱心な所属芸人に厳正な処分を行ない、健全なフツーの会社になるしかありません。世間様が許さないからです。でも、そんな会社にオモロイ奴が入ってくるでしょうか?
私は、パワーポイントの資料を見せながら理路整然と説明をする社長の会社よりも、「アメマ!」ですべてを済ませようとするような社長をみんなで支える会社のほうが好きです。たぶん、大阪の人は吉本にはそういう会社でいて欲しいと思っているはずです。知らんけど。
現実問題として、ここまで大きくなった会社を小さくするのは難しいでしょう。これからは、積極的に有力芸能人や社員の独立を認め、ネットワーク化することで、全体のパイは確保しつつ、本体は縮小するべきと思いますがアメマでしょうか。
最後になりましたが、安倍首相は、スピーチで一つだけ大きなミスを犯してしまいました。それは、現在の大阪城が、秀吉のものと同じく、時代の最先端技術を取り入れた城であること、不況に負けず市民の手によって再建された城であることを世界に発信しなかったことです。
ご清聴ありがとうございました。