神様お願い【特別編】

  子どもの頃、私の家の周りは蛍がたくさん飛んでいました。昔からよく言われるのが、気温と湿度が高く空気がモワッとした日の夜、時間は夜9時までくらいなら必ず出てくる。

 アニメ『火垂るの墓』の蛍が舞うシーンのような光景が昭和の終わり頃くらいまでは見られました。 


火垂るの墓 f

 しかし、今はその条件を満たしても、お目にかかれることは滅多にありません。かかれたとしても、多くて数匹が弱々しい光を放ちながら飛んでいる程度です。

 ちなみに去年は、ここに書いた一度だけ。

meganegadoushita.hateblo.jp

  見たのはゴールデンウィークが終わってからだったと思います。蛍の見頃は、5月下旬~6月中旬くらいと言われているので、早めの初蛍が、そのまま“蛍の光”だったことになります。今年は6月が終わっても一度も見ることはありませんでした。

 蛍暦零和元年になるかと思っていましたら、本日蛍を見ることができました。なんとまたも自宅で。

 前回は、エアコン掃除のあとだったのですが、今回は水廻りの掃除のあと。三角コーナーに溜まったゴミをポリバケツに移そうと外に出た瞬間、小さな光がひとつ、スーッと現れました。時間は夜9時を随分と過ぎていました。

 

 実は私、今日の昼間、知人が飼っている犬(メス)を撫でさせてもらえる機会に恵まれまして。私は彼女の毛と肉の感触を確かめながら、我が愛犬(オス)に毎日おねだりされていた日々を思いd、、いや、正確には、「やっぱまた犬飼いてぇなぁあああっ!」と強く思ったというようなことがあったのです。

 去年も、出来過ぎなくらいのタイミングで蛍が現れたので、これは転生蛍に違いないと思ったのですが、まさかの二年連続。もう7月ですから、どうやら今年はこれが本当の蛍の光になりそう。

 

 前編・後編で、犬は次のためにおしっこを残しておくみたいな話をしたのですが、まさか、この世に魂の欠片を残していたとは。もしかしたら、私の指先についたメスのにおいに引かれたか、嫉妬しただけかも知れないけれど、できれば来年また逢いましょう。お互いまだ、残っていたら。

神様お願い【後編】

 愛犬がまだ生きていた頃の話です。季節は冬。

 私は、犬の散歩に出かけました。

 あの日、辺りに雪はまだありませんでした。ただ風が強く冷たく吹いていました。

 

 私は寒さが苦手なので、冬の散歩はどうしても億劫になります。さっとコートを羽織って軽やかに出掛けられればまだいいのですが、そこそこ寒いこの地方では、防寒ウェア上下に帽子、耳当て、マフラー、手袋、ブーツか長靴が標準様式。まず身支度が面倒。

 しかも犬という動物は、気配を察する能力が非常に高いので、少しでも期待を持たせようものなら突然目を輝やかせ、クルクル回って、ワイルドワンズしだしますので、こちらものんびりなどしていられません。それは高齢犬になっても変わりませんでした。

 話は変わりますが、盲導犬や介助犬などは、人間のためにワンズっ気を抑えるように厳しく訓練された存在ですので、見かけたら優しくしてあげてください。

 

 さて、散歩スタート。雪はないとは言え、この寒さでは人通りはなく、近くの観光施設も閑散としています。広い駐車場に車が1台、寂しそうに停まっているだけ。正面から強い北風。私は背中を丸めながら、犬は南極観測船さながらに進みます。

 

 すると、どこからか女性の叫び声が聞こえたような気がしました。

 立ち止まって耳当てを外すとやはり、誰かが「キャー!」と言っているような気がします。しかし、辺りを見渡しても、特にそれらしい現場はありません。

 けものの鳴き声か、風切り音か、でももし、事件とかだったらどうしよう…。私は、急に不安になり、とりあえず声?の正体を探すことにしました。

 しかし、進撃の散歩犬に私の願いが届くはずもなく、先を急がざるを得ません。仕方なく、少し歩いては立ち止まって耳を澄まし、また少し歩いては立ち止まって、、を繰り返していたのですが、向かい風のせいもあってか、やがてさっぱり聞こえなくなりました。

 やっぱり一回、戻ったほうがいいかな…。

 そう思いかけていたそのとき、私は神社の前にポツンと停まっている車に目が留まりました。

 あれって、さっきの駐車場に停まってたやつじゃないの?

 

 少し距離をとりながら観察すると、どうやら誰も乗っていないようです。私は、犬の散歩を装い(散歩だけど)、さりげなく車内をのぞき込みました。

 すると、座席の上にアダルトDVD的なものが…!

 

 推理してみよう。

 私がさっき駐車場の近くを通りかかったときには、奴は車内でこれを鑑賞中だった。女性の叫び声のように聞こえたのは、おそらく隠しきれない移り香が いつしかあなたに染みついた 誰かに盗られるくらいなら あなたをピーしていいですか のあえぎ越えだった。もしくは、そこに至る過程のものだった。

 いや。もし、そうだったとしても、本来ならあの距離では私に聞こえるはずがない。ないのだが、あるとすれば、考えられる理由は一つである。

 耳にはしっかりイヤホン(ヘッドホン)をしていた。しかし、機械にきちんと接続されていなかった。そうなると、機械上では音量十分なのに、耳から入ってくる音は、思っていたよりも小さいという現象が起きる。それはそうだ、耳栓をして外の音を聞いているのと同じ状態だからだ。

 しかし、本当の悲劇はここから始まる。人間とは他人を疑う生き物である。聞こえにくいのを機械のせいにして、更にボリュームを上げてしまうのだ。この結末は、経験者なら痛いほど分かるであろう。

 

 しばらくして、奴は気付いた、いや、誰かに気付かされたのかもしれない。音がダダ漏れだったことに。

 …終わりだ。

 

 逃げるように駐車場を出たところで、神社の看板が見え、奴は思い立ちハンドルを切った。神にすがろう。そして、今まさに手を合わせている最中に違いない。困った時の神頼み、溺れる者は魔羅をも掴むというではないか。

 

 それにしても、いったい誰なんだ。どんな面して祈ってやがるんだ?見たい。知りたい。

 しかし、犬を連れて鳥居をくぐってはならない。それが礼儀だ。置いていくか?焦るな。しばらく待てば、奴は必ずここに戻ってくる。

 どうする?真実はすぐ目の前だ!

 

 …やめておけ。

 犬もおしっこを残しておくではないか。

  

 今思えば、うちの犬は、全てを察して私をあそこまで導いてくれたのかも知れません。自らの任務を果たしながらも、私の願いもちゃんと聞き届けてくれた、、あなた、本当は神だったの?  

 

 もしそうなら、もう一度願いを聞いて欲しい。

 出てきて。今すぐに。

 

 フレームの向こうから。

 


もののけ姫 アフレコ

 

神様お願い【前編】

 愛犬がまだ生きていた頃の話です。季節は冬。

 私は、犬の散歩に出かけました。

 あの日、辺りに雪はまだありませんでした。ただ風が強く冷たく吹いていました。

 

 犬というのは、マーキング(おしっこ)が仕事のようなところがあります。無表情に片脚を上げ、時には脚も上げずに遂行する姿を見ていると、人間と同じく、半ば義務的にさせられているのではないかと思うときがあるのです。

 よく犬は、“今”しか考えていないと言われます。しかし、私はそうは思いません。本当に、今しか考えられないのなら、膀胱に溜まった尿を残らず一気に出してしまうはずです。誰も止められないこのニョージック、あなたにも聞き覚えがあるでしょう。

 我が家の犬の散歩は、朝昼夕の3回が決まりだったのですけれど、よく考えたら自分がもし1日3回しかトイレに行けないとしたら、毎度間違いなくダムパンパンです。放流の際には勢いが凄すぎておまえ黒部かよ、みたいなことになるはずです。そして、脳内には一緒に一種の快楽物質が放出されますから、それを途中で締めるというのは、かなりの修行を積んだ者にしかできないはずです。

 本来、動物は、欲求(快楽)を抑えきれないものです。人間も犬も気持ちいいことしたいんですよ、いっぱい。したいの。いっぱい。ぜんぶしたいの。ぜんぶ。

 

 数えたことはないのですが、1散歩あたり、最低5回はマーキングしていたと思います。もちろん、最初の1回が最も量が多くて時間も長いのですが、残りが人間で言うところの残尿とも思えません。あれは間違いなく計画的犯尿です。

 つまり、尿に溺れるものは、人生に溺れる。生活(縄張り)を維持できなくなることを知っていたのです。欲求が10あるなら1くらいは、次のために残しておく。それを愚かという人もいるでしょう、できない人もいるでしょう、しかし知恵というのは、重ねた失敗から一歩退いた時に生まれる気付きの結晶であると、彼は私の心にマーキングして逝きました、めでたしめでたし、、にはなりません。

 後編に続く。

喧嘩は止めて私の芋煮

 新聞でこの記事↓を読んだからかも知れないけれど、新型コロナウイルス諸々のことを“敵”や“戦い”以外に表現できないものかと考えるようになりました。

www.asahi.com

 

 こういう記事↓を読んでも「進化とは?」への答えが変わったように思います。

diamond.jp

 今世界中に蔓延している新型コロナウイルス(COVID-19)も、「SARS」や「MERS」のように、いつか必ず“収束”します。そして、世間的には収束を以て人間の“勝利”となります。

 勝利の条件としては、第一には「ワクチンの開発」、第二に「既存薬の活用」、第三に「感染機会の減・滅方法の確立」が挙げられます。おそらく、それらの実績が伴わない場合は、引き分け~敗北に近い勝利という感じではないでしょうか。叩き、叩かれ、ボロボロになっても最後にリングに立ってさえいればチャンピオンだじょー伝説。

 

 しかし例えば、リングの上と社会、明日をどう生きるのかを考えてみたとき、“勝利”の意味も変わりはしませんか?

 

 自分らしくとか後悔のないようにとか、富や名声のためとかいろいろ考えれば、普通はリングの上の相手に勝つことが第一目標になるでしょう。しかし、「生きる」ただそれだけに徹すれば、ルール上の勝ち負けに意味はなくなります。

 勝利と引き換えに命という代償を払うことの意味をウイルスから学ぶことはできないでしょうか。

 

 実は私、「SARSもMERSも未だに抗ウイルス薬やワクチンはない」ことを最近になって知りました。人類が“勝利”したと思っていたのに…。 

 一説によれば、両ウイルスともに強烈であったがために、宿主である人間を殺し過ぎてしまい、自らが生きる場所を失ってしまったとのこと。なんだその孤独な能力者の末路みたいな話は。 

 そして、今回の新型コロナウイルス(COVID-19)は、どうやら致死力は低いが掴み所が無いトリックスターのような存在。同じコロナウイルスという枠組みで捉えるなら、状況に適応した最新形態と言えそうです。そう、“最終”ではなく。

 

 もしも「弱毒化」によって、新型コロナウイルス(COVID-19)が収束に向かっていくとするならば、それは、宿主と共に生きるウイルスが残った、いわゆるダーウィン的な“進化”が起きた結果であって、人間の“勝利”であるとはとても言えない、いや、そもそも、元から両者に勝ち負けなど存在しないのではないか。

 あえて言うならば、そう考えられるようになったことが、私の中の“勝利”なのだ。(はい、これであなたのハートをノックアウト!)

 


【公式】あしたのジョー 第50話「闘いの終り」"Tomorrow’s Joe 1" EP50(1970)

 「俺とウイルスを一緒にすんじゃねぇよ。」

好きな声

 いきなり愚痴っぽくなってしまうのですが、なぜに近頃流行りの曲は、みんなで同じパートを歌う(そして一斉に踊る)ものが多いのでしょうか。秋葉系も坂系もジャニーズ系も。一般的に、一人一人の声として認識できるのは5人同時くらいが限度では?

 80年代中盤以降、アイドルがグループ化を強めてきたことは承知しています。おニャン子クラブ、光GENJI、SMAP、モーニング娘。など。それでも、歌い手に個性はあったような気がするのです。ああ、この子は口パクだといい顔とか、この子はソロデビューしそうとか、その音程どうなの中居くんとか。そうなんですよ、下手でも何でも一人一人に見せ場はあったし、世間は歌手として見ていた感じがするのです。

 2000年代に入ると、1グループあたりの人数が随分と増えて、見た目もよく似ているし、みんな一緒に歌って踊って、なんだかもうグループと言うよりも組織、、いや、会社みたいです。人気投票の成績や立ち位置で存在感を示すというのも、すごく会社的です。

 メンバーが抜けることを、“卒業”だなんて言いますけれど、私には“人事異動”に映ります。歌は個性ではなく、全体パフォーマンスの一部になったように思います。

 もちろんファンから見れば、それぞれの“推し”は違って見えるのでしょうし、メンバーもそれぞれが差別化に一生懸命でしょうから、個性がないみたいに言っている私のほうが、頭おかCのはわかっています。

 ただ、あの表現的にも限られた「枠」の中で、個性を100%出すのは難しいし、自己表現として突き詰めていけば、いつか窮屈になるときが来るだろうな、と思うのです。

 

 って、そんなことを書いてるお前が一番窮屈やぞ!というわけで、ここらでニーナ・シモンさんの曲いってみよう。 


Nina Simone - I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free (Audio)

 私は彼女の歌声が好きなんです。決して透き通るような美声ではないけれど、人生を3回くらい見てきたような憂いを帯び、自分の心に残響が重なっていくような声。

 理屈人間の私が、歌っている内容よりも声に真実味を感じてしまうのはなぜでしょうか。人類の祖先は、夜は明かりではなく音を頼りに生きていただろうからその名残なのかと考えてみたり。(私が英語がわからないのは内緒!)

 

 さて、彼女がソロではなくグループで歌っていたらどうでしょうか。これはこれでしんどいと思うのです。彼女が大勢のメンバーと秋元康詞をユニゾンしても個性を打ち消し合うだけでしょう。

 ニーナ・シモンはソロ、寺門ジモンはトリオ、荒井注の抜けたザ・ドリフターズは志村けんが加入することで、逆にメンバーが引き立ったのも、自分の力を存分に発揮できる自由を得たことが大きかったように思います。そして、そこには自分なりの決断があったはず。(だからといって、前に出るだけが個性ではないことも付け加えておきます。)

 

 今年に入って突然、世界中が自粛ムードになって気付いたのは、今まで惰性で続けていたものの存在です。非常事態にあまり悠長なことも言っていられないのですけれど、光を失うと音や気配に敏感になるように、今は自分の声に耳を傾け、少し息継ぎをすべきときのような気がしています。

 それでは、God breath bless you.というわけで、この曲を。


ニーナ シモン ・マイ ウェイ ・1971年

 自分に正直に生きなければならないことはない。

 ただ、そのように生きた人がいることは知っておいてもいいだろう。