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武田徹『暴力的風景論』を読んだらこうなりました。

武田徹『暴力的風景論』|新潮社

風景とは、かくも危険なものである――。

見る人の気分や世界観によって映り方が変わる風景は、“虚構”を生み、時に“暴力”の源泉となって現実に襲いかかる――。沖縄の米軍基地、連合赤軍と軽井沢、村上春樹の物語、オウムと富士山……戦後日本を震撼させた事件の現場を訪ね、風景に隠された凶悪な“力”の正体に迫る。ジャーナリズムの新しい可能性を模索する力作評論。

と、新潮社のホームページにはなんだか、ハードボイルドっぽく書いてあるのですが、武田さんの眼差しはとても優しいです。もう少し言えば、その優しさとは他者に対して誠実であるということかな。

 誠実であろうとすればするほど具体的な解決策を提示することができない”善人のジレンマ”はあるけれど、事実関係を整理し、相手の立場を想像し、共通項を探す姿勢を持つことは、はっきりとした到着地点や時刻は示せなくても、”方位”はきっと合っている。だから今は先が見えなくても進むことが肝心。

 ジャーナリズムの醍醐味がスクープのようなセンセーショナルな即時性にあるのは事実だけれど、丁寧な検証と独自の切り口にこそジャーナリストとしての本質が表れると思います。

 私たちは、そういうジャーナリスト鑑賞法みたいな”楽しみ”方をもっと勉強すべきなのでしょうね。まずは買って応援ということで新品購入。 

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 タイトルにもある「風景」には、物理的な「景色」や「眺め」以上の意味が含まれています。現実の風景越しに見る心象風景といった感じでしょうか。

 中身は、戦後日本において重大事件や事象の現場となった場所を訪ね、当事者が見た(であろう)「風景」を一冊にまとめた”アルバム”のようなものになっています。

 私自身、それをめくりながら一つひとつの出来事を思い返してみたのですが、基本的な事実さえ知らないまま判断していた自分ごめんなさい。な心境でした。

 この一冊を読むことで一変した「風景」もあったりして、己の未熟さを恥じました。

 

 もうひとつ、「暴力」について。

 どんな人間も本質的には暴力が皮を被って生きているようなものなので、何かの拍子に中身が剥き出しになるのが当たり前です。しかし、暴力に至る”理由”を知り、安全装置、つまり生きる”知恵”を得ることによって、なんとか体面を保っています。

 その知恵の集大成が民主主義であり、その下での”私的”な暴力はどのような理由があったとしても正当な手段として認められません。

 ここでの「暴力」は、奪ったり、殺したり、傷つけたり…、を相手に被らせる行為を指します。

 私は自分のことを無用な争いは好まないし、相手の立場で物事を考えるようにしている良い人。もっと言うなら、歪んだ日本社会の”最後の良心”くらいに思っていました。

 しかし、このような思い込みに「暴力」の芽があるのですね。 

 何かを「守りたい」「壊したい」「造りたい」…、きっかけは様々でしょうが、「暴力」は、周りを自分の「風景」の中に引き入れようとしたときから始まっています。中身はどうあれ、主観は常に暴力性を帯びています。そして、それはピュアであればあるほど強い…。

 

 正直なところ、世の中は他人の「風景」や自らの「暴力」を感じない人ほどラクに生きられるようにできていると思います。

 そんな現実に嫌悪感を抱きながらも、できることなら自分もこんなことをうじうじブログに書いていないで、笑顔で「楽しもう!」とか真顔で「死ねばいいのに。」と言える人や、原発が今すぐなくなればみんな幸せになるとかならないとか、何の迷いもなく主張できるような人になりたいと思うときもあります。

 いやほんと、今すぐラクになりたいし、そのほうが自分にも周りにも良いのかもしれないなぁ、でもそしたらみんな同じ穴のムジナになってしまうなぁ…、

 みたいな葛藤をしながら歳だけとっていくなんてアホ?勢いで行っちゃえよ!と思うときもありますが、この1冊を読んで改めて出した自分なりの答えは、

 〈何かあっても人それぞれ事情があるんだから、撃ち合いよりも受け身の技を磨いて、次に備えるしかない。〉

 です。「暴力的風景」に対しては、しばらくはこの”消極的自衛権”とでも言うべき方法で何とかやり過ごしていくことにします。

 ということで、一緒に地味に歳をとっていく仲間を随時募集しています。