命が惜しくなってきた

 最近、ネットで流れてきたのがこちら。


TBJ/1期・・モンキー・ダンス

 

 尾藤イサオさん、出し惜しみなしのテクニックがすごい。。私が物心ついたときには、“懐かしのあの人”的な扱いで、『あしたのジョー』のテーマとか往年のロックンロールを大げさに歌う人のイメージだったけど、根底には天性の器用さがあったんだな。

 谷啓・植木等のクレイジー・キャッツのお二人は、典型的なおもしろおじさんのダンスに見えるけれど、そのおもしろおじさんの典型の典型が、クレイジー・キャッツなんだなと再認識。

 青島幸男さんは、私には『意地悪ばあさん』とか突拍子もなく東京都知事になったイメージしかなかったけど、これを見ると、型やリズムに忠実で、壊れてそうに見せて壊れていない感じが、やっぱり物書きとしての冷めた頭を感じさせます。

 

 最近、歳のせいか、その頃見えていなかったものに気づくことが多くて、なんていうか、そんな自分がもったいなかったというか、相手に申し訳なかったというか、そんなことを感じるようになりました。本当に温故知新でうんこちんちんです。

 

 考えてみれば当たり前のことなんですけれど、死ぬまで知らないことがいっぱい。

 ああ、命がいくつあっても足りないな。

糸井重里を嫌いな人がいるなんて

 あ~、手帳売って暮らしてぇ。

 疲れた日本人なら誰もがそう思っているかどうかはわかりませんが、少なくともコピーライター(と埋蔵金ハンター)としての糸井重里さんを知っている世代は、彼のことを好意的に見ていると思っていました。

 しかし最近、彼を嫌う人たちがいることを知りました。

 

 確かに、「飾らない」「自然」「シンプル」、、、一見すると現代社会から距離を置いているようで、実はマーケティングにどっぽりな生き方を提唱しては、“おいしい”生活を手に入れる人たちと同じニオイがすると言えばしますし、もしかすると発臭源なのかも知れませんが、個人的には、彼のようなポジションが羨ましいです。

 以前に、インターネット上で“恋しさと せつなさと 糸井重里” というフレーズが流行ったことがありましたが、私が今そのような心境です。

 

 たとえば、この冬にあたたかくてしかも履いててラクな靴下が欲しいなーって思って、このような記事を見せられたとして、

 

チェコのおばあちゃんとの出会い

「かかとに据わる靴下」──チェコでは、履き心地の良い靴下のことを、そんなふうに表現するそうです。チェコのルジェナおばあちゃんが編んだ靴下に出会ったのは2006年でした。

東欧のチェコは雪国であるため、氷点下15度という日も珍しくなく、外出時はブーツに分厚い靴下を履いて足元もしっかり防寒しなければなりません。
ルジェナおばあちゃんが編んだ靴下は、「直角」の形をしていました。靴下の編み方は母親を真似て自然に覚えたそうですが、かかとの編み方はおばあちゃんが独自に考えたのだとか。
履いてみると、かかと部分がすっぽりと収まって余ることなく、ズレ落ちにくく、とても履き心地が良いものでした。

履く人のことを考えて、履き心地の良さを追求し、履く人に喜んでもらえる靴下――ルジェナおばあちゃんが編んだ「直角」靴下の心地良さを、もっと多くの人に手軽に味わって欲しい。そんな思いから、手編みで形作った直角を機械編みで再現するという、今まで誰もやったことのない挑戦が始まりました。

靴下と聞いてみなさんが普通に思い浮かべるのは、「くの字」に曲がったあの形。120度の靴下です。角度にするとたった30度の差ですが、これが大きな壁でした。 どうすれば、この「くの字」を「L字」に変えられるのか――靴下メーカーの方々とのミーティングがスタートし、早速、研究開始です。関係者みんなで、1足の手編み靴下を代わる代わる履いてみました。「う~ん、なるほど」かかとがすっぽりはまるその快適性は、誰もが実感できるのですが、ただただ唸るばかり。唸っては靴下を眺め、眺めては履き、を繰り返すだけで、なかなか答えは出てきません。

そこで、「実際に編み方を見て研究しましょう!」ということになり、チェコのおばあちゃんの娘さんに来日していただくこととなりました。2006年5月某日。社内の関係者全員が揃う中、チェコから来日した娘さんに、靴下の手編みを実演していただきました。そして、その一部始終を研究のためにビデオ撮影しました。ところが、撮影はしたものの、そのビデオを観ても、出てきた答えは「やっぱり、わからない...」。手編みの編み工程自体も非常に特殊なのですが、それを機械編みにしようとするとさらに難しく、関係者一同、首を傾げるばかりです。また振り出しに戻って、一からやり直し。そんなことの繰り返しでした。

一方、工場探しも難航しました。そもそも、一般的なものづくりに逆行して非効率的なことをしようとするのですから、そう簡単に見つかるはずはありません。何度も何度も問い合わせた結果、編み機を改造(調整)するしかないという結論に至りました。 そこから、試作と根気の戦いが始まりました。サンプルを作っては試し履きし、また修正をかけては試し履きをする、という工程の連続です。直角に編み立てては、かかとが余りすぎないか、足の甲がたるみすぎないか、ズリ落ちないか、と検証していきました。納得のいくサンプルができあがったのは、こんなやり取りを10回以上も重ねた後のこと。こうしてやっと、チェコのおばあちゃんの手編みの靴下を日本の靴下に反映した「足なり直角靴下」が誕生したのです。

2006年11月、たった3アイテムでスタートした「 足なり直角靴下」。2010年2月からは無印良品のおおよそすべての靴下が直角になっています。

 ああ、こういうおばあちゃんいいよね。

 でもこれ、結局おばあちゃん関係なくない?

 

 最初から、そうハッキリと言える心強さが欲しい。

 買ってすぐに毛玉いっぱい、履き口がよれよれになった直角靴下を握りしめながら。

欲しいのはティッシュじゃない

 毎年この時期になると忙しくなるのが年賀状の、、、営業です。

 田舎だと親戚や友人筋から頼まれることがすごく多いのですが、その営業スタイルについては、いつも疑問に思います。

 まず、局員(や家族・親戚など)から、所定の申込み用紙を渡されて、住所氏名・枚数などの必要事項を記入して提出するところからして面倒なんですけれど、提出したところですぐに現物が来るわけでもなく、日を指定できるわけでもなく、向こうの都合で持ってきて、お金はそのときに現金で払うというスタイル。

 私が知らないだけで、各郵便局によってやり方は違うと思うのですけれど、全国の皆さんどんな感じですか?

 

 中の詳しい事情はわからないのですが、申込み用紙の宛先が、営業に来る局員の所属郵便局名なところからして、今年も実質的なノルマがあることは察しました。

 こちらにお願いするほうも嫌だと思うんです。売った枚数で個人に報奨金でも入るんならまだしも、わざわざ知人に手間かけさせてまで見せかけの実績作るなんて。

 それで、やっぱり申し訳ない気持ちになるのか、注文した年賀はがきを持ってくる際に、ポケットティッシュくれたりするんですけれど、どうせなら、試し書き用のハガキをひとつ私にくださいな。ハガキ型の紙でいいからくださいな。

 年賀状自作派の人は、ごわごわのポケットティッシュよりそっちの紙のほうが喜ぶと思います。

 実際のところ、年賀状が少なくなって一番困るのは、プリンターやインクメーカーのはずなので、それくらい協賛してあーげましょう、あげましょうになりそうものだけどなぁ。 

 

 いろいろ言いましたが、頼んだら持ってきてくれるのが助かる人もいるのは確かなので、もう少しみんなに幸せが届く方向でよろしくお願いします。

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ゲゲゲの鬼太郎

わかりあえない前提

 子どもの頃、近所の同い年の三人でよく遊びました。

 小学校は地元の公立。誰かの家に集まって、部屋でだらだらテレビゲーム、おやつに漫画、みたいなことでした。

 中学校もみんな同じ地元の公立でしたが、クラスや部活が違ったこともあり、遊ぶ回数はかなり減りました。

 高校に入ると更に回数は減りましたが、集まったときには、当時流行っていたサッカーゲームをしたりしていました。

 

 私の住んでいたまちには、3つの高校がありました。いずれも公立校ですが、住民の間には暗黙の格付けがありました。私は、二人とは別の高校に通っていました。

 ある日、久しぶりに三人が集まったときのことです。

 どういう経緯かは忘れたのですが、ひとりが「◯高の奴は、俺らのこと馬鹿にしてるんやろ?」と言いました。

 子どもの頃から何度も喧嘩はしても、そういう話にはなったことがなかったので、私は目の前に突然壁が出来たようで動揺しました。自分なりに否定したのですが、「賢い奴に、アホの気持ちはわからんやろ!」と言われ、うまく返せませんでした。

 そのせいで更に疎遠に…、ということはなかったのですが、高校卒業後には住むところもバラバラになり、以来一度も集まっていません。

 ちなみに、偶然にもみんな長男ですが、ひとりは地元を離れて就職し、そこで結婚して暮らしています。ひとりは地元に就職しましたが、保守的な父親の元を離れて婿に入りました。ひとりは大学卒業後地元に戻り、インターネットの片隅で生きています。さて私は誰でしょう?

 

 というわけで、世間様の言う「相手の気持ちになればわかる」みたいなことに、私はずっと疑いを持っています。やっぱり、人間はひっくり返っても、同じ立場にも気持ちにもなれない部分があるはず。それなのに、わかったような(わかられたような)気になっては、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、勝手なことを言っているんだろうな、と。

 誤解のないように補足しますと、そういう前提でいたほうが良いと思うだけのことです。

 わかろうとすることに、きっと意味はありますから。

 

 実はこの度、こんなサイトをつくりました。

 わかってくれとは言いませんが、こんな人もいるのかと思ってもらえれば幸いです。

 

屁を国

 得ぬ国に限らず、ああいう方たちの燃料は話題性(アクセス数)ですから、止めさせたいなら、ゆっくり屁でもこきながら無視が一番。メディア社会における兵糧攻め。くれぐれも勇んで倒しに出ませんように。本気で勝ちたいなら、真の相手は自分です。

 みたいなお説教を、このお話を見ながら考えていました。


まんが日本昔ばなし 屁ひり女房

 こどもの頃、ムキになっていると「押してもダメなら引いてみな」とよく言われましたけれど、世の中には「引き屁」という概念があることをこのお話で初めて知りました。しかも、押し屁(?)より威力があるみたいだし。

 いったい、腸内環境どうなっているの?うんこは、うんこはどうなるの?

 というわけで、違うバージョンがありましたので、貼っておきます。屁でもこきながらどうぞ。


へっこきよめさ

 いやほんと、ぶっ放したいですね!