国葬劇場

 「国葬」が終わった。

 『ちむどんどん』も終わった。

 国論を二分していた両者が無事に終わり、正直やれやれです。関係者の皆様、お疲れさまでした。

 『ちむDQNDQN』への評価は後世の歴史家に任せるとして、ここに「国葬」について残しておこうと思います。

 社会学者の橋爪大三郎さんによれば、「国葬」ではなく「国葬儀」だそうです。見出しだけ見れば、揚げ足とりのようですが、中身は冷静且つ心の通ったものでした。

 言葉遊びをさせてもらえるなら、結局は「国葬儀」でもなく、「国葬偽」だったということかな。

www.asahi.com

 ネットやテレビでは、

・反対デモ

・一般献花の長蛇の列

・菅元首相の弔辞

を随分と取り上げていたようですが、要するに他に伝えることがなかった(間が持たなかった)ということ?

 世論調査では国葬反対が過半数だったのに、蓋を開けてみれば反対デモは少なく、一般献花は長蛇の列だったことをどう見るか、自衛隊員を演出に組み込むことに問題は無いのか、弔辞を誰が読むかで揉めていたのはどう落ち着いたのか、など深掘りされることもなく、見たままをそのまま流し、受け手の表面的な反応が拡散されてはまた消費されていく、、個人的にはそんな印象でした。

 デモと長蛇の列の件は、動員やら場面切り取りの議論を抜きにしても、人は心の中ではいろいろと思っていても公式な場では面と向かって言わない(しかも葬儀だし!)ですし、行列は並ぶとなかなか抜けられない(だって無駄になるもん!)ものなので当然、、というか、あれでもしスカスカだったら世界に大恥を晒すだけではなく、海外からの参列者の面目も立たないので、あれで良かったと思いたいです。

 自衛隊については、安倍元首相が国防に尽力したからということらしいのですが、自衛隊(軍隊)は個人に帰属するものではない(絶対あってはダメ)ですし、しかも“国葬”なので、主従があるような演出は控えるべきだったと思います。

 イベントとは言え、生前には制服姿で戦車に乗って笑顔を見せたりしていた(好きだったんだろうなぁ)ので、その辺りの境界が曖昧になっていたのはあると思います。今後、自衛隊の軍備増強を願うなら、余計にハッキリとさせておくべきだったのではないでしょうか。

 さて、私が理解できなかったのは、菅元首相の弔辞に対する好意的な反応です。

jbpress.ismedia.jp

 あれをなんで管さんが自分で書いたと思えるのでしょうか。管さんの語るエピソードのひとつひとつが、安倍元首相(の周辺)が国民に抱かせようとしたイメージそのままじゃないですか。で、実際はどうだったのかって話ですよ。

 もし、管さんが自分の言葉で書いていたとして、それはそれで国民はもうちょっと怒って良いんじゃないですか?「なぜ俺たちには愛の言葉をくれなかったのか」「守る相手が違うんじゃないの?」と。

 二人の熱い関係が嘘だったとは言いませんけれど、葬儀委員長である岸田現首相を隅に追いやるようなインパクトを放ったことで、管さんはまとまりを失いかけていた旧安倍派と友人たちの光となっただけではなく、国民に対してパンケーキの比ではないイメージチェンジを果たしたとは言えませんか。実務家としての評判が高い管さんだからこそ、そんな穿った見方をしてしまいます。

 私は、安倍元首相が悪人だったとは思いません。むしろ、空っぽなまでの純真さが人を惹きつけたと思います。一般人にはないプレッシャーやコンプレックスを背負い、身内には優しく、自分の気持ちが通じない相手には敵意をむき出しにする、人間味溢れる人柄だったように思います。

 だからこそ、彼を慕う人や純粋に不幸な出来事を悲しむ人の気持ちを素直に持っていける場にするべきでした。「国葬(儀)」にするにしても、強引だった印象は否めません。

 葬儀で救われるのは故人だけでなく、生きている人です。

 葬儀で苦しむのもまた、生きている人なのですから。

全然大成仏無(ぜんぜんだいじょばない)

 田舎のお家にお邪魔すると、仏間の長押にご先祖様の遺影がずらり並んで掛けられていたりする。上から目線、である。

 しかし、学校の応接室に飾られた歴代校長や音楽室に掲げられた偉大な作曲家とは違い、なんとなく生々しい。“他人のように思えない”のだ。

 前回、安倍元首相銃撃事件のことを書いた。

死んだ人の顔が更新されることはない。記憶の中の安倍晋三氏の顔は、これからずっと同じだろう。 しかし、もう自分の意志を表明したり、実現したりすることはできない。魂と同じく、意志は身体を離れてしまった。そして、私を含め、みんなが好き勝手に語り始めている。「レジェンド」「記憶の中に生きている」と言えば聞こえは良いが、これからは造られた「安倍晋三」が他人の意志で動いていくことになるのだろう。

生きる免許は更新された - 限りなくホーミーに近いブルーズ 5

 と、書いたのだが、事態は思った以上に上滑りを起こしているように思う。

 私は、事件後しばらくは安倍政権の再評価(検証)のような動きがあるのかと思っていたが、2ヶ月が経とうとする今、マスメディアは、旧統一教会と関係のあったヤツを探せゲームに夢中。山上容疑者の言葉はほぼ聞かれなくなった。どうやら個人的恨みということで終了のようだ。

 野党は野党で、国葬の説明をひたすら要求。旧統一教会との関係を「知らなかったんです。ごめんなさい。もうしません。」で済ませようとする政権与党に対して強く言えない何かがあるとしか思えない。旧統一教会批判から飛び火し、特定団体からの支持で自分たちが成り立っていることに矛先が向くのを避けているのだろうか。

 国葬については、私も思うところはある。私なら、「お別れの会」にして、費用は自民党と一般有志で賄うことにするだろう。あれほど“お世話になった”のだから、断られても出すでしょ、ふつー。そして、肯定派も否定派も名実ともに安倍政治からの再出発となるはずである。

 しかし、そんな簡単な話にならないのが、政治の世界なのだろう。国に殉じた者に報いるように見せなければ、国家主義は成り立たない。「みんなの安倍さん」ではなく、「日本国の安倍晋三」でなければ都合が悪いのだ。また、国葬は外交カードでもある。

 今でこそ、家族葬が増えつつあるが、本来葬儀は、死を悼むだけではなく、故人と社会とのつながりを証明する場であり、後継者を世に知らしめる場でもあった。嫌な言い方になるが、故人の影響力が大きければ大きいほど、死を利用しない手はないのである。

 ここで確認だが、安倍元首相の葬儀は既に済んでいる。四十九日法要も近親者のみで行われたようだ。

 国葬の祭壇に遺骨はあるのだろうか。当然ながら遺体はないはずだ。美しい花で飾られた祭壇、引き伸ばされた故人の笑顔、日の丸、、、世界各国から招かれたVIP達はいったい何に手を合わせるのだろう。昭恵さんはどういう立場でそこにいればいいのだろう。国葬が故人の記憶と結びつくことはあるのだろうか。

 巨大な遺影が遠く遠く見える、今からそんな気がしている。

生きる免許は更新された

 運転免許の更新かー。

 冷蔵庫に貼ってある更新ハガキによれば、期限は来月だ。まだ余裕だ。余裕だ余裕だと思っていたら、あっという間に目の前に。

 …そんなことを繰り返してきた。

 私は子どもの頃から期限ギリギリ。大人になってもそのまま。その意味ではまったく更新されていない。何も新たになっていない。それどころか最近は、“うっかり”も増えて来て、期限を守れなくなることも。冗談抜きで、不安になることがある。

 笑って許される年齢でもないので、今回は先週からこの日に行くと決めていた。7月8日、更新は金曜日だ。ハガキによれば、午前と午後どちらでもよい。私は、午前の部に行く予定をしていたのだが、案の定起きるのが遅れた。先生、あと30分あれば行けたんです!

 こうなったら来週でもいいのだが、ここで譲ればまた同じ事の繰り返しだ。ブランニューな自分を手に入れるために、自分との約束を守るために、何としても午後の部に行くと決めた。

 ところが、だ。

 早めに昼ご飯を済ませ、出かけるまでテレビでもと思い、リモコンの電源を押すと「安倍元首相撃たれる」の報が流れてきた。この時点では、動揺を感じながらも「あの人のことだ、そう簡単に死にはしないだろう。」そう思った。

 NHKは、明らかに混乱しているようだった。いや高揚か。

 とにかく情報が欲しい、その現れだろう、近くにいた人へのインタビューをモザイクも掛けずに当たり前のように流していた。単独犯とも限らないだろうに。よくもまあ、市民を危険に晒すことを平気でするものだ。津波や大雨には、命を守る行動を呼びかけていながら。

 

 こんな日は免許の更新に行かないほうがいいかな。なんとなく嫌な予感するし…。迫る不安から逃げるように、テレビを消し、車に乗り込んだ。行くぞ!

 道路は空いていた。バックミラーには、白いトラックに煽られ気味の後続車が映っている。あれがいなくなったら、次は私だろうな。予想通り、センターラインが橙から白に変わると、白いトラックは猛スピードで追い抜いていった。神戸ナンバーか…。その調子でどこまでいけるかな。

 会場に着くと、駐車場には車が1台しか停まっていない。もしかして、今日めっちゃ空いてる?更新ハガキを確認すると、私が受付開始の時間を間違えていただけだった。慣れないことをすると大体いつもこんなことだ。

 とりあえず建物に入り、時間を潰すことに。待合室のテレビは、銃撃事件の続報を流している。私はそこで安倍元首相が「心肺停止」なことを知る。それが何を意味するか、メディアは言葉にはしないだろう。事実を受け入れる準備ができるまでは。

 これまで私は、安倍政権のすることを何度も批判した。はっきり言って人間的にも嫌いだ。憎しみが無かったと言えば嘘になる。しかし、死ねと言葉に出したことはない。(アホ・バカ・やめろの類は言いました、ごめんなさい。)

 うまく表現できないが、死を望むようなことを口にしなかったことが、ニュース映像を直視できない自分を救ってくれているように感じた。

 

 受付が始まった。会場には早く来たはずが、あとから来た人が我先にと並び始める。納得はいかないが、これも毎度のことだ。まあまあの位置に付けたのでヨシとしよう。

 窓口の係員に更新費用3,000円を払うと、次に隣の交通安全協会の窓口に行くよう促される。ここでは、毎度会費500円×年数分をお願いされる。私は5年分なので2,500円だ。入会は任意である上に、協会への天下りが問題視されてから、全国的に窓口で拒否する人が増えた。前回の更新では、押し問答になる人もいたが、今回はみんなさらっと拒否するか、無言で支払っていた。係の人も追加のお願いはしないようだった。

 支払うことに釈然としない気持ちはあるが、実際に地域の子どもや高齢者に協会主催の交通安全講習会を開いているのは知っているし、今回も払うことにした。お決まりのノベルティグッズ(免許証ケースとキーホルダー)と引き換えに。

 ちなみに、さきほどメルカリを覗いてみたら、もらったグッズを売りに出している輩がいるではないか!グッズのデザインが各都道府県で違うようで、コレクターがいるのかも知れない。

 

 さて次は視力検査と写真撮影、、やっと悪夢のような5年前の自分から解放されるときがやってくる。今度こそいいの頼むよ!

 撮影を終えると講習を受ける教室へと案内される。しかし、開始まではまだ1時間以上ある。中に入ると、誰もいない教室に垂れ流しのテレビ。チャンネルはNHK。相変わらず銃撃事件の続報。

 とりあえず画面を見ないようにしながら座って待っていると、急にアナウンサーの声の調子が変わった「今、襲撃の瞬間の映像が届きました!」とのこと。

 映像を見なくても生々しさが伝わってくる。映画ならR指定だろう。これを流す必要はあるのだろうか。私はないと思う。まるで電車で人身事故が起きたときのSNSを見るようだった。人の不幸よりも、投稿やイイネを優先する人が世の中には確実にいるのだ。

 違う見方をすれば、そういう人がいる以上、今のマスメディアはこれまでの倫理観を捨てなければ埋没してしまうのだろう。もはや、NHKでさえインターネットの後追いメディアと言っていい。実質的に、自前主義を放棄した「スクープBOX」なども、その現れだ。

 かつては、各ワイドショーが報道番組では流せないような大衆紙の記事を扱うコーナーを持っていた。それが今は、マスメディア全体が素人の投稿を加工して自分の手柄のように流している。視聴者としては面白ければいいのだろうが、おそらく現場の取材力は低下する一方だろう。

 などと、誰もいない教室で衝撃のLIVE放送を前に考えられるはずもなく、嫌な胸騒ぎが止まらない私はとにかく教室の外で待つことにした。

 

 開始15分ほど前になると、係の人に中へ入るように促された。席は7割埋まっている。テレビは相変わらず流れていたが、ほとんどの人は下を向いていた。講習が始まるのをこれほど待ち遠しく感じたのは初めてかも知れない。

 DVDの視聴、法令改正の説明などを終えると、いよいよ更新された免許証の交付だ。番号が呼ばれ、真新しい免許証を手にすると真っ先に顔写真を確認した。

 悪夢からは覚めたが、その表情は明らかに年をとっていた。更“新”なのに古びるとはこれ如何に。

 

 死んだ人の顔が更新されることはない。記憶の中の安倍晋三氏の顔は、これからずっと同じだろう。

 しかし、もう自分の意志を表明したり、実現したりすることはできない。魂と同じく、意志は身体を離れてしまった。そして、私を含め、みんなが好き勝手に語り始めている。「レジェンド」「記憶の中に生きている」と言えば聞こえは良いが、これからは造られた「安倍晋三」が他人の意志で動いていくことになるのだろう。

 私はどうだ。とりあえずまだ意志を持って生きている。

 顔写真は古くなろうとも。

釈迦に説法 初夏にワンピース(後編)

 息を整え、エスカレーターへ。

 ここを上ると、駅の喫煙所がある。囲いはしてあるが天井やドアはなく、衝立で仕切られただけのような構造だ。こんなところにも京都らしさを演出だろうか。

 そのため、臭いと煙が容赦なく漏れ出てくる。なんなら人間も漏れ出てくる。

 私はエスカレーターの途中で息を止める。そして冷たい視線を彼らに向ける。彼らは皆、いつも遠い目をしており、これまで一度も目が合ったことはない。

 …苦しい、急ぎ足で通り過ぎ、角を曲がるとそこは「551の蓬莱」。臭いに惹かれていつも人が並んでいる。

 毎度思うが、なんなんだこのレイアウトは。

 ここさえ抜ければ、あとは改札へ向かうだけだ。マスクの中で大きく息を吐き、臭いの国に別れを告げる。

 電光掲示によると発車時刻までは、まだ少し時間があるようだ。

 …トイレに行きたい。ICカードをタッチし、ピッ!次はおしっこピッ。改札を抜け連絡橋を電車を待つホームとは逆方向へ。

 

 そこで私は、向かい側から来る女性にドキリとしてしまった。トリガーは彼女の着ていたワンピースだった。思い出の中の彼女と同じく、ロングワンピースがよく似合っていた。

 目の前の彼女は、20代前半くらいか。KF94風カラーマスクに大きめのセルフレーム眼鏡、髪は黒いロングストレート。ボタニカル柄のワンピースに、ストリートっぽいキャップを合わせてくるところは、いかにも今風。大きなスーツケースを引き連れて歩く姿は、K-POPアイドルのオフショットのようだった。

 雰囲気からして、もしかすると本当にそうかも知れない。私は眼球に力を込めて彼女の顔を窺おうとした。ただならぬ圧を感じたのか、その瞬間彼女は顔を逸らした、、ように見えた。

 んー、気になるなぁ。あれはいったい何者だったんだろう。ロケの帰りだったりして。そんなことを考えながら用を足していると、アッという間に感じた。用が済んだらトイレを出て、ホームに向かおう。

 連絡橋を戻り、ホームへのエスカレーターを降りていくと、下から生ぬるい風が吹き上げてくる。こういう風になびくワンピースがいいんだよ。宮崎駿監督だってきっとそうだ。だからヒロインは南風に白い帽子を飛ばすんだろう?

 

 ホームに降り、ベンチに腰を掛ける。一息つこうと水筒に手をやり、ふと前を見ると…、電車を待っているではないか、先ほどの彼女が。電車を待つキミの横でボクは何を気にしてる?来たのか運命、臭うぞ「GO!GO!意志の到来」。

 しかしさすがにこの年になると、冷静さを保つための知識と経験が身についている。このホームには、行き先の違う電車が交互に乗り入れることを私は知っているのだ。細かく言えば、このホームを出た電車は、次の駅から一方は北へ、一方は東へと向かうのだ。

 彼女はホームに立ち、私はベンチ。ということは、彼女は次の電車に乗る可能性が高い。行き先は、東だ。普段から、そちら方面に向かう人のほうが多い。

 試してみるか運命の分かれ道。私は立ち上がり、少し離れた位置で待つことにした。電車が来た。彼女が乗れば賭けに敗れ、即お別れである。ある、…あれ?乗らないの!?

 少し恐くなった私は、万が一のことがあっても同じ車輌にならないよう、足元の番号を確認した。

 

 次の電車が来た。京都駅で乗客のほとんどが降りる。私は目の前だけを見るようにして電車に乗り込んだ。さて、彼女も乗っただろうか。

 車内は席を選べる程度に空いていた。私は、いつものように湖の見える側に座った。普通に考えれば、彼女はこの車輌にはいないはずである。しかし、今、数列先斜め前方の席に彼女が座ろうとしている。なぜ?どこから来た?

 …座った。

 

 ここから先を整理してみる。乗客は、これより5駅以内は乗り降りが拮抗し、その先は降りる客のほうが多くなっていく。私が降りる駅は終点である。通常、この時間帯なら同じ車輌には2,3人しか残らない。つまり確立から言えば、お別れは近い。次の駅で降りる可能性も否定できない。

 しかしまさかの展開は続く。彼女に、一向に降りる気配がないのである。キャップの角度からして、おそらく寝ている。ただの乗り過ごしなのか、それとも先が長いからなのか。ついに私が降りる駅まで来てしまった。

 少ない降客の中に私と彼女がいる。キミはさっき京都にいたはずじゃないか。行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず、鴨長明、come on運命。

 

 さて、確かにここは終点なのだが、この電車の場合、それは後ろ寄りの車輌のみ。前寄りの車輌は更にこの先に向かう。私(たち)が乗っていたのは、後ろ寄りだ。

 つまり、この先に行きたい人が後ろ寄りの車輌に乗ると、一旦降りて前寄りの車輌へ移動しなければならない。これを知らない人が多く、困惑している人をよく目にする。

 降りると、どうやら彼女も知らなかったらしく、不思議そうにスマートフォンの画面を眺めていた。

 そうか、さすがにここでお別れだな。良い夢を見させてもらった、ありがとう。あとは駅員さんよろしく!

 

 私はバスに乗り換えるために、改札を出た。乗り場には、まだ誰もいない。バスが来ても一人だった。

 ICカードをタッチし、迷わず一番後ろの席に座る。いつものアナウンス、聞き覚えのある声だ。ベテランさんかな?

 ここで彼女が乗ってきたら、これはもう運命を超えてミステリーだ。そんなことを考えながら、定刻までしばし待つ。

 普通ならば、ここでバスが発車して物語は終わる。

 …but,never ending story,窓の向こうに女ひとーりー。スマートフォンの画面を眺めながら現れたのだ。私は身を潜めるようにして彼女を観察した。

 こっちに来る?来ない?来る?…うわ、来たーーーーーー!

 そして、彼女はこのバスの前を、、、通り過ぎていった。

 

 「発車しまーす。」

 別れの合図だ。 

 それにしても、彼女はいったい何のためにこの駅で降りたのか。ずっとスマートフォンを眺めていたということは、ここは知らない土地のはずだ。友人を尋ねてきたのなら、迎えが来ているだろう。観光なら、歩いていった方向は明らかに間違えている。

 もしかして、このバスの乗り場を探していた??

 過ぎゆく景色の間にワンピース姿の彼女が見えた。立ち止まって、スマートフォンを眺めていたようだった。

 一体、キミは何を捜しているの?

 OK,Google,私を出して。

釈迦に説法 初夏にワンピース(前編)

 「せいりけんをおとりになるか、あいしーかーどをたっちしてください。」

繰り返す音声に被せるように

 「ご乗車ありがとうございます。このバスは、、、」

の車内アナウンス。聞き慣れない声だ。どうやら、新しい運転手さんらしい。

 バスの挙動に合わせて「止まります」「揺れます」「発車します」を入れてくる丁寧なスタイル。声の感じからして中堅さんといったところか。ブレーキワークも丁寧。どうもこれからお世話になります。

 しかし、ということは、あの運転手さんは異動になってしまったのか…?

 

 バスから電車を乗り継ぎ京都へ。世の中が一気にwithコロナに傾き、混雑を予想していたが、街は意外と空いていた。私は、いつもの病院に向かう。

 道中、修学旅行らしき集団をいくつか見かけたので、以前の京都に戻りつつあるようだ。

 病院もこのひと月で警戒レベルが下がった様子。問診票の記入義務がなくなり、出入口の制限も緩和されていた。感染の心配はあるが、ちょっとうれしくもある。

 

 さて、病院からの帰り。駅に向かうバスの中は、前回のような“おはなし親子”もおらず、静かだった。運転手のやや荒いブレーキワークにも皆沈黙していた。

 しかし、その角を曲がれば京都駅となったところで、事件は起こった。異臭だ。サージカルマスクを貫き、鼻を突く刺激臭。

 車内の空気の流れからして、一番後ろの席に座っていた私は、おそらく一番の被害者だろう。

 「誰や!屁ぇこいたんは!!」

 私は叫びたい気持ちをグッと堪えた。オナラを堪えられなかったあなたのために。

 それでも車内は静かだった。辺りを見渡すそぶりを見せる者もいない。これが京都仕草なのだろうか。

 

 新型コロナウイルス対策で、車内換気の徹底が継続されていたのは、不幸中の幸いと言えるだろう。ガスはメントールのように駆け抜けていった。

 さては貴様、それを見越して…。とも思ったが、おそらく奴も我慢はしていて

 ①目的地が近づき緩みが出た

 ②運転が荒かったのでカーブの遠心力を堪えたときに出た

のではないかと思い直すことにした。我ながらグッドアンガーマネジメントだ。

 

 謎は謎のまま。バスは終点京都駅。

 一番最後に降りた私は、大きく息を吐き、さほど美味くもない空気を深く吸い込んだ。

 さあ、帰ろう。

 私はエスカレーターに向かった。

 

 (後編に続く)