全然大成仏無(ぜんぜんだいじょばない)

 田舎のお家にお邪魔すると、仏間の長押にご先祖様の遺影がずらり並んで掛けられていたりする。上から目線、である。

 しかし、学校の応接室に飾られた歴代校長や音楽室に掲げられた偉大な作曲家とは違い、なんとなく生々しい。“他人のように思えない”のだ。

 前回、安倍元首相銃撃事件のことを書いた。

死んだ人の顔が更新されることはない。記憶の中の安倍晋三氏の顔は、これからずっと同じだろう。 しかし、もう自分の意志を表明したり、実現したりすることはできない。魂と同じく、意志は身体を離れてしまった。そして、私を含め、みんなが好き勝手に語り始めている。「レジェンド」「記憶の中に生きている」と言えば聞こえは良いが、これからは造られた「安倍晋三」が他人の意志で動いていくことになるのだろう。

生きる免許は更新された - 限りなくホーミーに近いブルーズ 5

 と、書いたのだが、事態は思った以上に上滑りを起こしているように思う。

 私は、事件後しばらくは安倍政権の再評価(検証)のような動きがあるのかと思っていたが、2ヶ月が経とうとする今、マスメディアは、旧統一教会と関係のあったヤツを探せゲームに夢中。山上容疑者の言葉はほぼ聞かれなくなった。どうやら個人的恨みということで終了のようだ。

 野党は野党で、国葬の説明をひたすら要求。旧統一教会との関係を「知らなかったんです。ごめんなさい。もうしません。」で済ませようとする政権与党に対して強く言えない何かがあるとしか思えない。旧統一教会批判から飛び火し、特定団体からの支持で自分たちが成り立っていることに矛先が向くのを避けているのだろうか。

 国葬については、私も思うところはある。私なら、「お別れの会」にして、費用は自民党と一般有志で賄うことにするだろう。あれほど“お世話になった”のだから、断られても出すでしょ、ふつー。そして、肯定派も否定派も名実ともに安倍政治からの再出発となるはずである。

 しかし、そんな簡単な話にならないのが、政治の世界なのだろう。国に殉じた者に報いるように見せなければ、国家主義は成り立たない。「みんなの安倍さん」ではなく、「日本国の安倍晋三」でなければ都合が悪いのだ。また、国葬は外交カードでもある。

 今でこそ、家族葬が増えつつあるが、本来葬儀は、死を悼むだけではなく、故人と社会とのつながりを証明する場であり、後継者を世に知らしめる場でもあった。嫌な言い方になるが、故人の影響力が大きければ大きいほど、死を利用しない手はないのである。

 ここで確認だが、安倍元首相の葬儀は既に済んでいる。四十九日法要も近親者のみで行われたようだ。

 国葬の祭壇に遺骨はあるのだろうか。当然ながら遺体はないはずだ。美しい花で飾られた祭壇、引き伸ばされた故人の笑顔、日の丸、、、世界各国から招かれたVIP達はいったい何に手を合わせるのだろう。昭恵さんはどういう立場でそこにいればいいのだろう。国葬が故人の記憶と結びつくことはあるのだろうか。

 巨大な遺影が遠く遠く見える、今からそんな気がしている。