氷の世界

 数年ぶりの冬らしい冬。やる気ストロングゼロ。

 犬が居たときには、毎日外へ強制連行されたのだが、それがなくなりもう4年が経つ。供養も兼ねてと、毎日一人散歩に出た時期もあったのだが、だんだんとおっくーんになり、随分と甘えた身体になってしまった。

 これではダメだ。と毎日思いながら、行動に移す割合は3%くらいだろうか。薄い。。

 とは言え、この日は頑張って散歩に出た。時間はAM11:30を過ぎていた。ワークマンで買ったショートブーツはなかなか使い勝手は良いのだが、足取りは重い。

 前方から一人軽やかに走り来る少年あり。速い。どんどん近付いてくる。日曜日のスピードではない。新型コロナウイルスの影響で、部活動が禁止になっているからだろうか。強くなりたい子は、そういうときにこそ走るものだ。

 元陸上部員としては、頑張れのひと言でも掛けたいところだが、このご時世どうしても躊躇してしまう。

 よし。もし、向こうから挨拶をしてくれたら、ちゃんと返そう。知らない子に「頑張れよ!」も偉そうなので、軽く「こんにちは」にしとこうか。

 来る、きっと来る、、、来た!!

 「おはようございまーす!」

 「こんにちは。」

 嗚呼、言ってしまった。もうお昼だとしても、ここは「おはようございます」と返すべきだろう。咄嗟に反応できなかった。すまない、少年よ。悲しいかな、これが今の私の実力なのだ。

 うつむき加減で歩みを進めると、轍に氷が張っているのに気付いた。子どもの頃は、通学路に張っていた氷をよく割って歩いたものだ。特に男の子はみんな割りたくて割りたくて田んぼに入ってまで割っていたものだ。「リビドー!」「リビドー!」「リビドー!」と叫びながら。

 と、さすがにそれはないが、みんなで争うように割って歩いたのは確かだ。そんなことを思い出して、1枚割ってみた。

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 いい。すごくいい。昭和の窓ガラスのようだ。

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 厚みもいい。上物だ。

 話は変わるが、なぜ近頃の建物はやたらガラス張りにするのか。コンセプトとしては、「つながり」「開放感」「一体感」みたいなことなのだろう。それはそれでいいのだが、私は必ずしも境目を“透明”にする必要はないと思うのだ。

 適度に光を取り入れ、程よく気配を感じる(隠す)、、そういう窓の本質を無視したどでかい公共建築が建つ度に、以前はどこの家にも当たり前のようにあったあの模様入り窓ガラスを想うのだった、、、

 くらいの文章がすぐに浮かぶくらい良い氷だった。

 よく見ると、この先にもたくさん氷が張っているではないか。私は子どもの頃のように、次々に突っついたり踏んでみたりした。

 そうそう、この音。氷は、ガラスのように「パリン」とは割れない、どちらかと言えば「ミシ」に近い。そんな記憶が一気によみがえった。

 本当に子どものままなら、おそらくこのまま家まで割り続けただろう。

 しかし、割れば割るほど我に返ってゆく。あの頃は、何も考えず透き通るような時間を過ごせていたはずなのに、今は割った氷に見知らぬふりをできないでいる。それが優しさなら良いのだけれど、どうやら違うようだ。

 

 テレビを点ければ北京オリンピック。もしかしたらあのランニング少年も、オリンピックを目指しているのかも知れない。

 まずは一日でも早く、新型コロナを気にせずに練習が出来るようになって欲しい。それまでは、できることをやるしかないだろうけど、どうか頑張って欲しい。

 私も、次はちゃんと挨拶が返せるようにしておくから。

 


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