そして書は旅に出る

画家ゴーギャンの古書に1枚の色褪せた通信簿が挟まっていた。それは、昭和23年、別府市の小学6年生の少女のものだった。番組は通信簿を少女に返さねばという思いに駆られ、少女探しの旅に出る。歴史に埋もれた日本の戦後史をひも解く旅の始まりだった…。

 私が観たのはどうやら再放送だったらしい。BS-TBSで放送された『通信簿の少女を探して~小さな引き揚げ者 戦後77年あなたは今~』というドキュメンタリー番組だ。

bs.tbs.co.jp

 「事実は小説よりも奇なり」

 ロマンチックな出会いから段々とリアルへと展開していく。途中から作り手の想いがどんどん強くなっていくのがわかる。たまたまチャンネルを合わせただけだったのだが、結局最後まで観てしまった。今では聞かれなくなった「報道のTBS」という言葉を思い出す、良い番組だった。

 

 私も古本を買うことがある。

 街の片隅にある落ち着いた雰囲気の古書店。レトロな装丁の一冊を棚からサッと取り出し、パラパラとめくり、スッと戻す。これを何度か繰り返す。そのうち、だんだんと欲しい本が固まってくる。全部は買わない。無口な店主と当たり障りのない会話を交わし、会計を済ませる。店を出て数十歩、袋から取り出しもう一度中を見る。家で読もうか、それとも窓際で読めそうなカフェでも探そうか、それが私の古本style、、、

 否!ネットでタイトル検索し、少ない商品画像と状態説明をチェック。値段と信用を天秤に掛ける。次から次へと流れてくる“おすすめ”とも闘わねばならない。迷ったら“お気に入り”に追加だ。とりあえず寝かせておくと案外自分の気持ちが整理されるものだ。決まったら運試し同然にカートに入れ、結果を受け入れる。それが田舎住みな私のrealである。

 ひと昔前は、ネットの中古品販売は怪しいイメージが付きまとったが、最近は、売る側もレビューを気にするので事前チェックをしているのだろう、商品の状態が「可」でも傷みが少ないものが多くなったように思う。挟まっているとしても、栞かスリップくらいのもので、「通信簿」のような大きなものは、出荷前に抜かれるはずだ。

 何かの記事で読んだのだが、その土地の“民度”を知りたければ、「ブック〇フ」に行くといいそうだ。ご近所の蔵書が大量に持ち込まれてそのまま棚に並ぶかららしい。真偽のほどはわからないが、何となく説得力はある。

 あの本は、どのようなお店に並んでいたのか。詳しい説明は無かったように思うが、大手チェーン店ではなさそうだ。古本街にあるような本の壁に覆われた薄暗い店に無造作に置いてあったのではないかと想像している。

 誰かがあのお店に持ち込まなければ、あれが「ゴーギャン」でなければ、手に取ったのがあの番組ディレクターでなければ、買われたのがあの日でなければ、、、通信簿が持ち主の手元に戻るまでには信じられないくらいの偶然が重ねっているのだが、最初の出会いに関しては、案外「ブック〇フ」の話ように、その土地やお店の持つ“引力”のようなものが働いたのではないだろうか。

 

 さて、ここからの話は信じてもらえるかわからない。

 先日ネットで買った中古本に、これが挟まっていた。

 『ボラギノール』と双璧をなす「痔」の市販薬ブランド『プリザエース』の外箱の切れ端である。

 なぜ?????こんなことある????

 私は精一杯考えた。栞として使うにしても、他になにかあっただろう。無造作に千切られた感じからして、よほどの緊急事態だったのか。この本がトイレに置いてあった、もしくはトイレのお供だったと考えれば、可能性はなくもないが…。

 お尻の痛みには耐えられるが本のない生活には耐えられない、そんなストイックな人が持ち主だったのだろうか。でも、お尻の通信簿は1か2だぞ?

 お願いだから、読む前に手はしっかり洗ったと言ってくれ。

 挟まっていた本の題名は伏せておくが、或るノンフィクション作家と思想家の対談本であった。

 「痔実は小説よりも奇なり」

 

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追記)

 『通信簿の少女を探して~小さな引き揚げ者 戦後77年あなたは今~』は『TBSドキュメンタリー映画祭2023』に出品され、福岡と京都で追加公演が決定しているとのこと。

www.tbs.co.jp

旅のしおり(京都編)

 旅と言うわけでもないが、2ヶ月ぶりに京都へ。

 朝はそれほどでもなかったのだが、昼下がりにもなると大きなスーツケースを持った人が随分と目に付く。駅の構内を何やら相談しながら歩く卒業旅行らしき若者や外国人観光客を避けながら歩く。彼らの視界には、野暮用で来た私のことなどまるで入っていないようだ。

 新型コロナ第8波収束の兆しも見えてきて、次に来るときはもっと人が増えているのだろう。Have a good day、私はもう帰るよ。

 ん?

 改札を抜けた片隅にこんなものが。

 交差する駅と液。これは、“まちのほっとステーション”ということでよろしいでしょうか?

 ただの駄洒落なら、写真など撮らずに通過するだけだったのだが、よく見ると謎めいている。

 「鎧駅」と「光駅」がJR西日本管内にあるのはわかった。勉強にもなった。

 「消毒駅」には不覚にも笑ってしまったのでこれもヨシとしよう。

 問題はここからだ。下りが「よろい」で上りが「ひかり」?

 つまり、よろい駅でマスクをして、ココ(消毒駅)で手指を消毒した乗客は、ひかり輝く明るい未来が待っているという路線図というか、ストーリーが込められているということのように思うのだが、いくらなんでも「鎧=マスク」「光=明るい未来」は強引ではないか?そもそも「消毒駅」だけで充分ではないのか?

 いや、ちょっと待て。

ヒント:よろい駅は特急はまかぜが通過するよ

“通過”だと?それではノーマスクではないか!などと考えてしまい、停車せずにはいられない。

 傍に“切符”が忘れてあるところを見ると、私の他にもここで臨時停車した乗客がいるようだ。わからないでもない、改札を通った後に気付いてしまったのだろう、この“エキ”の存在に。こんなところに切符を忘れてしまった者に明るい未来が待っているとは思えないが、目的地でどうか優しい駅員さんに当たりますように。

 写真を撮り、ささやかな祈りを捧げながら、私は駅を発車した。

 …あれから、一週間が経つ。

 この投稿の前に画像を拡大してみると、あの忘れ物は切符ではなく、どうやら“領収証”らしい。京都駅でわざわざ240円の領収書をもらう人、、、、そんな細かい几帳面な人が、どうしてあそこに置き忘れてしまったのだろう。

 もしかして、わざと?そして私をどこかから見ていた?誰かが事件に巻き込もうとしていた?

 西村京太郎ミステリー。物語は再び動き出した。

おみくじ2023

 元旦のお天気にすっかり気を緩めていたら雪に降られ、本日初詣了。

 詣で先は、いつもの地元の神社だ。

 鳥居の前まで来たところで少し変化は感じていた。気を付ければ歩ける程度の積雪とは言え、いつものように参道の雪かきがされていなかった。

 昨年、私が子どもの頃から務めていた宮司さんが亡くなってしまい、京都からやっとのことで後任に来てもらうことになったとは聞いていた。京都の神社との兼務らしいので、これはまあ仕方ないな、と思いながら先に進むと、あれ?いつもおみくじが置いてある場所に何もないぞ?オレ様が何年続けてここでおみくじを引いてきたと思ってるの?前任者から聞いてない?

 これもまあ、人が代わればルールも代わることもあるか。帰りに社務所で引いて帰ってもらう方式になったんかな?んー調子狂うわー。

 時々足を滑らせながら本殿に着き、お賽銭を投げ入れようとすると、傍らに「おみくじ 百円」の張り紙が。

 しゃ、しゃくえん!?

 これまでいつも50円だったんだぞ?このところの物価上昇率からしても、いきなり100%UPはないでしょ!何様のつもりや?神様か!!

 まあでも、今までが安過ぎたのも間違いないし、これも京都価格で仕方ないか。どれどれ、、、、とおみくじボックスを覗くと中には5、6枚しか残っていない。一応まだ松の内なのに、無くなったらどうすんの?しかもなぜか全部、青い。

 と内心ぶつぶつ言いながら引いて帰ってきたのがこちらのおみくじ十七番でございます。

 値段や色が変わっても、中身が充実していればそれで良いじゃないか。

 ところが、圧倒的にしょぼくなっていた。小吉だからってなめてないよね?

 ちなみに、これが去年のおみくじ50円。両面にしっかりとお告げが書いてあります。

 そしてこれが今年のおみくじ。裏まっしろやないか!

 和歌もなく、別のお寺で引いたおみくじ30円にも及ばないクオリティ。

 これじゃあ実質200%UPくらいの値上げになってない?

 亡くなった宮司さんは、地元では偏屈者として有名だったけれど、ずっと守ってくれていたんだな。

 神様ぁーー!あの人はとても良い宮司さんでした!!

 長い間、本当にありがとうございました。

 

 帰り際、社務所では観光客らしい人が何度も呼び鈴を押していたが、扉は閉まったまま。

 もういつもの神社では無くなっていた。

ポイントレス

 私が初めて「ポイ活」という言葉を耳にしたのは1,2年前だったか。「断捨離」ブームもあって、「ポイッと捨てる活動」のことと思っていた。

 買い物をするとポイントがもらえる仕組みはこれまでもあったが、それらは“おまけ”やスタンプラリーの延長上にあったように思う。

 それがどうだろう。今ではポイントは、あって当然、、、どころかポイントをもらうために買い物をしているのではないかと思うことさえある。

 更には買い物などしなくても、スマホにアプリを入れてGPSをONにして歩いたり、ネット広告を見たりするだけで自動的にポイントが貯まるものもある。それはポイントもらっているのではなく個人情報や時間を切り売りしているのだぞ?

 コロナ禍に入ってからは、政府や自治体が発行する「クーポン」も飛び交う。使う前にいったい本当の値段はいくらなのだろうか、、、、などと一度はじっくり考えてみたほうがよいのだろうが、考えているうちに逃してしまっては私の婚期と同じだ。

 以前なら、「次の世代にツケを回すだけのバラマキなんて許せない!」と、意地で使わなかったのだが、「MOTTAINAI!使わないのはお金を捨てるのと同じ!」の決め台詞に、裸足のままで飛び出してあの列車に乗りたくもなる。

 「Go To トラベル」や「全国旅行支援」は、それでも使う気になれなかったのだが、この冬を前にマイナンバーカードを作ってマイナポイントをもらい、「dポイント」と連携させ、UNIQLOで期間限定価格になっていたフリースジャケットと暖パンを買った。残りは、docomoの支払いに充てようかなどと考えている。

 “お金を貯めて、自分の欲しいものを買う”

 そんなの、つい最近まで当たり前のことだった。買い物の喜びはそこにあった。それが今はどうだ、妥協からスタートし、降ってきたポイントやクーポンの範囲で、どれだけ“お得”に買えるかに時間を費やしている。

 もちろん手に入れればそれなりの満足感はあるのだが、一番欲しかったはずのキミはここにいない。

 経済を回すため、などと言ってはみても、結局は貧しくなった自分への言い訳に過ぎないのだろう……

 

 先日、母の買い物に付き合ってから、そんなことを考えている。

 

 母はここ数年、冬用のあったかいブーツが欲しい欲しいと言っていた。ここ何年もゴム長靴で我慢していたのだが、やはり冷えるし、滑る。去年も大雪で大変だったし、今年こそは!というわけだ。

 欲しいものを私がネットで探して注文はよくやるのだが、靴は自分で履いて確かめたいとのこと。以前、Amazonプライムの無料試着サービスを使ってスニーカーを買ったこともあるのだが、どうもしっくりこないようだ。

 そんな折に、市から地域限定のクーポン券(商品券)が届いた。

 いつもの買い物の足しにしようか、普段買わないものを買おうか、考えが分かれるところだが、せっかくなのでブーツを買ったらどうだということになり、4,000円分のクーポン券を握りしめて昔からある地元の靴屋さんに行くことにした。

 そのお店は、元々は商店街の小さなお店だったが、バブルの名残で駅前に進出してきた商業施設にテナントとして入っていた。その後、商業施設が撤退。店舗は近くのビルに移転した。それでも品揃えは豊富で、その頃までは、私も時々に買いに行っていた。

 今は、そこも明け渡して、メイン通りから離れた、古びた木造2階建てで営業を続けている。母も私もここに入るのは初めてだ。

 店に入り、うろうろしていると、かつてのように店主が親しげに近付いて来た。昔はこれが苦手だったのだが、互いに歳をとったせいか、それほどの圧は感じない。

 商売人の勘が働いたのだろう、店主がオススメを次々に紹介しだした。これをファクトチェックするのが私の役目だ。ソールの硬さや滑り止め、防水性などを確認しながら、店主と母の間に入る。

 あれはどうだ、これはどうだ、とやっていると、店主が18,000円の本革ブーツを持ち出してきた。見た目もスッキリしていて、確かに履き心地も良さそうなのだが、冬仕様ではないし、おいおいそれは違うでしょ!と思ったのだが、一度履いてみてくれとのこと。

 そりゃあ履けば欲しくなるかも知れないけれど、さすがにこのお値段では母も諦めるだろう。そもそも冬支度で来たんだよ。

 そして、実際に諦めた。

 先に目星を付けていた7,800円の防寒ブーツなら機能十分だし、母も気に入っている。これをクーポンを使ってお手頃価格で買って帰るのが私の描いたストーリーだった。

 ところが最終確認のため、18,000円から7,800円に履き替えたあたりから、様子がおかしくなってきた。

 「現品限りなんで、安くしときますよ。」

 店主は、こちらが頼みもしないのに本革ブーツの値下げを提案してきた。まあ聞くだけ聞いてみようかと「駆け引き得意じゃないんで、一発で言うてもらえませんか?」と返す。

 店主は電卓を叩き「んんん、現金で払ってもらえるなら13,000円でどう?これで限界!」

 ありがとう、これで母も諦めてくれます。だってクーポン使いたいんだもん。と思ったのだが、母はもう一度さっきの本革ブーツを履いてみたいと言い出した。

 ここからが長かった。履いたり眺めたり、逡巡が止まらない。聞けば、「最初履いたときに、探してたんのはこれやと思った。」とのこと。シンデレラか?

 「ほな、2つで18,000円でどうですか?1つタダでついてくるみたいなもんですよ。」

 「え?2つで? 1つタダ!?」

 意外な提案に、私のファクトチェック機能は失われた。

 母は運命の出会いに正気を失っており、自分の財布の中身も忘れてカボチャの馬車を待っていた。

 「うちもねー、コロナでお客さん減ってしもうて。正直現金欲しいんですわ。」

 結局、このやりとりは、私が足りない分を補って終了となる。

 店を出ると、母は「こんなに楽しい買い物したん、何年ぶりやろか。」と満足そうに言った。思わぬ親孝行ができたようだ。ネットではこの喜びはなかっただろう。

 ええ買い物したな。めでたしめでたし。

 

 で締めれば良いものを、私は家に戻ってから買った商品をネットで検索してしまったのだった。

 楽天やAmazonでは、同じ18,000円の本革ブーツが普通に50%OFF、もう一方も10~20%OFFの値段で売っていた。しかも送料込み。ポイントだって使える。安く買えたと喜んでいたが、ネットなら更に3,000円以上は安く買えたことになる。店主め~、結局うちらは、“ええお客さん”だったってことか。

 さすがこんな小さなまちで、時代にも負けず、どっこいお店を続けているだけのことはある。これからは師匠と呼ぶことにしよう。

 

 ネット検索のことは母には言っていない。

 思い出込みのビッグプライス。来年もよろしくお願いします。

 

隠していては進まない

 「思春期」とは11~17歳のことらしい。いつの間にか過ぎていた。

 「春機発動期」とも呼ぶそうだ。

 ヤマハかよ。確かに今も、あの頃のことが突然発動することはあるけれども。

 

 先日、京都駅のトイレから出ると、あとから中学か高校生くらいの男子二人組が出てきた。

 一方が開口一番、「おしっこ我慢してるとちんこ勃ってくることあるよな!」と言い放った。

 もう一方は、「はぁ??」とやや高めのトーンで返したあと、聞き役に徹していた。

 「あるよ。特にキミたちの頃はね。」

 教えてあげたかった。

 だがその必要は無い。若者よ、すぐに答えは出るさ。

 

 なぜ、彼が唐突にそんなことを言い出したのか。私には思い当たることがあった。

 ここのトイレは、少し前に改修され、見違えるように綺麗になった。

 以前は、小便器の前に立つと「一歩前に」の文字が目に付いた。私も例外ではないが、自らの雫で床を汚してしまう者が多かったからだ。

 しかし改修後は、汚れていることが減ったようだ。

 たまたま?

 掃除の回数を増やしたから?

 いや違う。きっと、小便器が昭和の公衆トイレによくある存在感抜群なものから、薄くて小さいスタイリッシュなものに変わったからだ。

 このスタイリッシュ小便器は、確かに見栄えは良いのだが、いわゆる金閣寺、いや金隠しになる部分がない。そのため、本来見えてはいけないものが見えてしまう事が起き得る。

 見られたくない者は、立ち位置を前にせざるを得ない。標語でお願いなどしなくても、自ら一歩前に進む意識が働き、結果的に床への“おこぼれ”が減るという仕組みだ。

 私はこれを性的コンプレックスを利用した「心理学便器」と呼んでいる。

 

 ここで、先ほどの男子を思い出して欲しい。

 彼は、意味も無く大きくなっていたものを“連れ”に見られたと思ったのではないか。そして、それを取り繕おうとした。いや、もしかしたら逆か?

 見た(見てしまった)のは彼で、突然のカミングアウトは彼なりの贖罪だったのかも知れない。

 いずれにしても、思春期の些細な出来事が、その後の人生に大きな影響を及ぼすことがある。この先、二人の関係が幸せであって欲しい。

 

 私は今でも小便器の前に立つのが恐くなるときがある。Tのせいだ。

 あれは中学生のときのこと。Tは、ちんこがデカかった。

 私は直接見たことはなかったのだが、彼と同じ野球部のみんなが言っていたから間違いない。

 ちんこがデカいだけなら問題は無い。身体もかなり大きかったが、これも問題は無い。問題は、人のちんこを鷲づかみすることだ。いくらピッチャーでもそれはないだろう。喝!

 校内では、毎日誰かの悲鳴(とTの笑い声)が聞こえた。ニヤニヤしている時の奴に近付いてはいけない、後ろを見せてはいけない。私の知る限り、鷲られた者は10人ではきかない。

 ある日のこと、トイレに行くと、Tが小便器で用を足すところだった。嫌な予感はした。

 しかしこちらも急を要する。黙って引き返すわけにはいかない。仕方なく、Tからなるべく離れた位置についた。

 

 わが校の小便器は、昔の学生を基準にしているのか、高さが低めだった。私は腰の位置が高めなこともあり、普通に立つと少し上にはみ出してしまう。想像してもらえるかわからないが、便器にadjustするには、①離れる ②腰の位置を下げる のどちらかが基本になる。①の問題点は、命中精度と露出である。Tならお構いなしにこちらを選ぶのだろうが、私はいつも②だった。

 理由は、自分が“発展途上”だったからだ。(のちにそれは発展途上でもないことがわかるのだが、それはまたあとのお話。)

 股を開いて腰の位置を下げる。そしてやや後ろに反る。すると腰の部分は必然的に前に移動し、便器にadjust。①の問題点もクリアする。これが私の定番styleだったのだが、Tはそれが気になっていたらしい。横目にニヤニヤとしているのが見えた。

 危ない!奴より先に済まさねば!!

 pump it! pump it!

 私は下腹部に力を込め、必死に押し出す。

 跳ね返りなど気にしてはいられない。

 Tが上下に身体を揺らし始めた。フィニッシュの合図だ。急げーー!

 

 なんとか間に合った。そそくさと、パンツを上げベルトを締める。

 …ふぅ。

 Tは、その一瞬の隙を狙っていた。突然、背後から私の股の下に手を伸ばし、鷲った。

 そして、女子トイレにも響く大きな声で叫んだ。

 「ちっちぇーなー!」

 

 これは本当にくだらないことだが、ここにヒエラルキーが形成され、よほどのことがない限り階層は固定される。どんな大きな数字であろうとも「0」を掛けたように、ちんこ小さいに打ち消されてしまう。

 Tに“掌握”された過去からは、思春期を過ぎても逃れきれなかった。意味の無いことだと頭ではわかってはいるのだが、ちんこはわかってくれない。声の大きい人が苦手なのも、最後のひと押しが弱いのも、そんな深層心理が働いているのでしょうか、教えてフロイト先生。

 そんな悶々とした日々を重ねていた私にも、異性にちんこを見せるときが来た。彼女は、私の大きさ、形、色、、そういうことには触れなかった。ただ優しく触ってくれた。気にしていなかったのか、わざと黙っていたのか、そんなのはどっちんこでもいい。今こうして受け入れてもらっている悦び。

 一方で彼女は、自分の胸の大きさを気にしていた。私は「そんなことないよ。」と答えた。おそらく口調に焦りはあっただろう。

 相手のコンプレックスを否定することは、思いやりのようではある。だが、それで相手は心から受け入れられたと感じるだろうか。その言葉は、自身を正当化するために出ただけではないか。自分は優しく、正しいのだと。

 よく考えろ、お前は「ん?ちんこ?ちぃちゃくないよ!」で救われたのか?そうじゃないだろう。コンプレックスを抱えたままでも受け入れてくれた人がいたことに救われたのではないのか?

 だったら彼女にどうすべきか、答えは出ているはずだ。

 

 だが、その必要は無い。若者よ、時はもう過ぎ去ったのだ。