「思春期」とは11~17歳のことらしい。いつの間にか過ぎていた。
「春機発動期」とも呼ぶそうだ。
ヤマハかよ。確かに今も、あの頃のことが突然発動することはあるけれども。
先日、京都駅のトイレから出ると、あとから中学か高校生くらいの男子二人組が出てきた。
一方が開口一番、「おしっこ我慢してるとちんこ勃ってくることあるよな!」と言い放った。
もう一方は、「はぁ??」とやや高めのトーンで返したあと、聞き役に徹していた。
「あるよ。特にキミたちの頃はね。」
教えてあげたかった。
だがその必要は無い。若者よ、すぐに答えは出るさ。
なぜ、彼が唐突にそんなことを言い出したのか。私には思い当たることがあった。
ここのトイレは、少し前に改修され、見違えるように綺麗になった。
以前は、小便器の前に立つと「一歩前に」の文字が目に付いた。私も例外ではないが、自らの雫で床を汚してしまう者が多かったからだ。
しかし改修後は、汚れていることが減ったようだ。
たまたま?
掃除の回数を増やしたから?
いや違う。きっと、小便器が昭和の公衆トイレによくある存在感抜群なものから、薄くて小さいスタイリッシュなものに変わったからだ。
このスタイリッシュ小便器は、確かに見栄えは良いのだが、いわゆる金閣寺、いや金隠しになる部分がない。そのため、本来見えてはいけないものが見えてしまう事が起き得る。
見られたくない者は、立ち位置を前にせざるを得ない。標語でお願いなどしなくても、自ら一歩前に進む意識が働き、結果的に床への“おこぼれ”が減るという仕組みだ。
私はこれを性的コンプレックスを利用した「心理学便器」と呼んでいる。
ここで、先ほどの男子を思い出して欲しい。
彼は、意味も無く大きくなっていたものを“連れ”に見られたと思ったのではないか。そして、それを取り繕おうとした。いや、もしかしたら逆か?
見た(見てしまった)のは彼で、突然のカミングアウトは彼なりの贖罪だったのかも知れない。
いずれにしても、思春期の些細な出来事が、その後の人生に大きな影響を及ぼすことがある。この先、二人の関係が幸せであって欲しい。
私は今でも小便器の前に立つのが恐くなるときがある。Tのせいだ。
あれは中学生のときのこと。Tは、ちんこがデカかった。
私は直接見たことはなかったのだが、彼と同じ野球部のみんなが言っていたから間違いない。
ちんこがデカいだけなら問題は無い。身体もかなり大きかったが、これも問題は無い。問題は、人のちんこを鷲づかみすることだ。いくらピッチャーでもそれはないだろう。喝!
校内では、毎日誰かの悲鳴(とTの笑い声)が聞こえた。ニヤニヤしている時の奴に近付いてはいけない、後ろを見せてはいけない。私の知る限り、鷲られた者は10人ではきかない。
ある日のこと、トイレに行くと、Tが小便器で用を足すところだった。嫌な予感はした。
しかしこちらも急を要する。黙って引き返すわけにはいかない。仕方なく、Tからなるべく離れた位置についた。
わが校の小便器は、昔の学生を基準にしているのか、高さが低めだった。私は腰の位置が高めなこともあり、普通に立つと少し上にはみ出してしまう。想像してもらえるかわからないが、便器にadjustするには、①離れる ②腰の位置を下げる のどちらかが基本になる。①の問題点は、命中精度と露出である。Tならお構いなしにこちらを選ぶのだろうが、私はいつも②だった。
理由は、自分が“発展途上”だったからだ。(のちにそれは発展途上でもないことがわかるのだが、それはまたあとのお話。)
股を開いて腰の位置を下げる。そしてやや後ろに反る。すると腰の部分は必然的に前に移動し、便器にadjust。①の問題点もクリアする。これが私の定番styleだったのだが、Tはそれが気になっていたらしい。横目にニヤニヤとしているのが見えた。
危ない!奴より先に済まさねば!!
pump it! pump it!
私は下腹部に力を込め、必死に押し出す。
跳ね返りなど気にしてはいられない。
Tが上下に身体を揺らし始めた。フィニッシュの合図だ。急げーー!
なんとか間に合った。そそくさと、パンツを上げベルトを締める。
…ふぅ。
Tは、その一瞬の隙を狙っていた。突然、背後から私の股の下に手を伸ばし、鷲った。
そして、女子トイレにも響く大きな声で叫んだ。
「ちっちぇーなー!」
これは本当にくだらないことだが、ここにヒエラルキーが形成され、よほどのことがない限り階層は固定される。どんな大きな数字であろうとも「0」を掛けたように、ちんこ小さいに打ち消されてしまう。
Tに“掌握”された過去からは、思春期を過ぎても逃れきれなかった。意味の無いことだと頭ではわかってはいるのだが、ちんこはわかってくれない。声の大きい人が苦手なのも、最後のひと押しが弱いのも、そんな深層心理が働いているのでしょうか、教えてフロイト先生。
そんな悶々とした日々を重ねていた私にも、異性にちんこを見せるときが来た。彼女は、私の大きさ、形、色、、そういうことには触れなかった。ただ優しく触ってくれた。気にしていなかったのか、わざと黙っていたのか、そんなのはどっちんこでもいい。今こうして受け入れてもらっている悦び。
一方で彼女は、自分の胸の大きさを気にしていた。私は「そんなことないよ。」と答えた。おそらく口調に焦りはあっただろう。
相手のコンプレックスを否定することは、思いやりのようではある。だが、それで相手は心から受け入れられたと感じるだろうか。その言葉は、自身を正当化するために出ただけではないか。自分は優しく、正しいのだと。
よく考えろ、お前は「ん?ちんこ?ちぃちゃくないよ!」で救われたのか?そうじゃないだろう。コンプレックスを抱えたままでも受け入れてくれた人がいたことに救われたのではないのか?
だったら彼女にどうすべきか、答えは出ているはずだ。
だが、その必要は無い。若者よ、時はもう過ぎ去ったのだ。