愛犬がまだ生きていた頃の話です。季節は冬。
私は、犬の散歩に出かけました。
あの日、辺りに雪はまだありませんでした。ただ風が強く冷たく吹いていました。
犬というのは、マーキング(おしっこ)が仕事のようなところがあります。無表情に片脚を上げ、時には脚も上げずに遂行する姿を見ていると、人間と同じく、半ば義務的にさせられているのではないかと思うときがあるのです。
よく犬は、“今”しか考えていないと言われます。しかし、私はそうは思いません。本当に、今しか考えられないのなら、膀胱に溜まった尿を残らず一気に出してしまうはずです。誰も止められないこのニョージック、あなたにも聞き覚えがあるでしょう。
我が家の犬の散歩は、朝昼夕の3回が決まりだったのですけれど、よく考えたら自分がもし1日3回しかトイレに行けないとしたら、毎度間違いなくダムパンパンです。放流の際には勢いが凄すぎておまえ黒部かよ、みたいなことになるはずです。そして、脳内には一緒に一種の快楽物質が放出されますから、それを途中で締めるというのは、かなりの修行を積んだ者にしかできないはずです。
本来、動物は、欲求(快楽)を抑えきれないものです。人間も犬も気持ちいいことしたいんですよ、いっぱい。したいの。いっぱい。ぜんぶしたいの。ぜんぶ。
数えたことはないのですが、1散歩あたり、最低5回はマーキングしていたと思います。もちろん、最初の1回が最も量が多くて時間も長いのですが、残りが人間で言うところの残尿とも思えません。あれは間違いなく計画的犯尿です。
つまり、尿に溺れるものは、人生に溺れる。生活(縄張り)を維持できなくなることを知っていたのです。欲求が10あるなら1くらいは、次のために残しておく。それを愚かという人もいるでしょう、できない人もいるでしょう、しかし知恵というのは、重ねた失敗から一歩退いた時に生まれる気付きの結晶であると、彼は私の心にマーキングして逝きました、めでたしめでたし、、にはなりません。
後編に続く。