今日、Amazonミュージックを聴いていたら、荒井由実『卒業写真』が再生されまして。
言わずと知れた名曲。しかし、私は名曲過ぎて歌詞をしっかりわかっていませんでした。確かめてみましたら、
✕ 悲しいことがあると 開くわあの表紙
◯ 悲しいことがあると 開く革の表紙
✕ あなたは ドキドキ 遠くで近くで
◯ あなたはときどき 遠くでしかって
✕ 裸足駆けるように ゆれる柳の下を
◯ 話しかけるように ゆれる柳の下を
でした。不思議なもので、一度正しい歌詞を見てしまうと、もう以前のようには聞こえなくなってしまいます。刹那。
それともうひとつ。アルバム『COBALT HOUR』(1975年発売)で聴いて初めて気付きました。
>ゆれる柳の下を
の「“ぎぃ↑”」のファルセットが、こんなにもキュ↑ートだったことに。
さて、ではなぜ覚え間違いをしていたのだろうかと、少し調べてみましたら、この曲を淡い恋の歌だと思いこんでいたのが原因のようです。
アルバムの中で追いかけていたのは、当時好きだったあこがれの人(先輩かな?)の顔写真で、卒業後しばらくして姿を見かけたけど、当時も今も自信がなくて、ついに声を掛けられなかった、遠くで近くでドキドキしていただけの“わたし”、、もしくは、“あなた”も実は”わたし”のことが好きで、同じように内心ドキドキしていたのね、乙女の妄想ドッキドキ?と思っていました。
と、まあ、それにしてはちょっと変な表現だなとは思っていたのですけれど…
本当にすみませんでした。できれば遠くで叱っていただきたいです。
もしも、私と同じような間違いをしていた方がいましたら、ぜひこちらの記事をお読みください。
“あなた”は、お世話になった高校の先生。街で声を掛けられなかったのは、あの日の先生の熱意と自分への罪悪感のようなものがあったから。
それを知って初めて、メロディー、詞、声がつながりました。ドキドキしました。
この曲の中の“わたし”は、決して後悔の中から出られない人ではありませんでした。あの頃の生き方を忘れないのは、“あなた”だけではなく、“わたし”も。人混みに流されて変わっていくことは、むしろ前に進んで生きていく宣言のように感じました。
そう考えると、“あなたはわたしの青春そのもの”が、単なる懐かしい思い出としての表現ではなく、“あなた”は当時の“わたし”であり、今を生きる“わたし”を感じさせてくれる存在そのもの。
「卒業写真」のあの人は、昭和風に言えば「街の灯」、今風には「ベンチマーク」、国土地理院風には「水準点・三角点」。
ここで私は思ったのです。私は誰かの“あなた”になることができているだろうか。もし今、私がこの世からいなくなったとして、のちに誰かから“あなた”と呼ばれることがあるだろうか。
今日はなんだか、自分がそういうことを考える年齢になったことを感じました。8年前の出来事などを思いながら。
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参考)