目を開けろ

>黙祷

 SNSのタイムラインに今年も流れ込んできた。あの時刻に合わせて。

 私はこの種の発信をする人たちが嫌いだ。

 「黙祷」の意味を分かっているのだろうか。

 わざわざ言葉に出すなよ。黙ってできねーのかよ。アンパンチかよ。

 だいたい文字打ち込んでから、ちゃんと目ぇ閉じてんの?enterして終わりじゃねーの?

 あとから「黙祷しました。」とか、前もって「今日は黙祷します。」ならわかるよ。でも、わざわざ時刻に合わせて“黙祷”って打つって、イベントか何か仕切ってるつもりかよ。

 

 …私は明らかに苛立っていた。

 もう、いつものことだが、この日が近づくと落ち着かない。マスメディアは特集を組み、周囲でも話題に上がることが多くなるが、私からはなるべく触れないようにしている。黙祷はしない、というより出来ない。浮かんでくるから。そして何より、目を開ければ嘘だらけの現実しか見えない。したくない。

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 10年前、私は職場のテレビで中継映像を見ていた。ヘリは、津波が川を遡り、家が、田んぼが、道路が、空港が濁流に呑まれていく様子を伝えていたのだが、まるで映画でも観ているようだった。急に現実味を帯びたのは、迫る津波から逃げる車が映り込んだときだった。

 あとからわかったことだが、カメラは、ただ撮っていただけではなかった。みんな、それぞれの辛さがあったんだな。

note.com

 私は、同年の5月にボランティアとして被災地に行った。今回、当時のブログを読み返してみた。それまでインターネットで晒されることを何より恐れきた私が、身バレ覚悟で書いたのだから、気概だけは確かだ。

ittotsu.jugem.jp

   被災地のためにと精一杯書いたはずだったが、改めて読むと己の不甲斐なさを嘆きながらも、結局は自己満足と高揚感に包まれていたことが分かる。自分は誰かを助ける側であると信じ、いつかはヒーローになりたい(なれる)と思っていた、いたのだったが…

 詳しくは書かないが、それから数年後、私は病気になり、名前も知らない人から命をもらい、生き長らえる経験をするのだった。

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 タイムラインから流れる“黙祷”が少なくなると、私はだんだんと落ち着きを取り戻した。

 当事者にとって、10という数字に意味は無いが、自分なりの節目として書き残しておこうと思った。書いているうちに、気持ちの整理もついてきた。

 あれから被災地がどう変わったか、私はもう一度この目で確かめなければ死ねないと思ってきた。それが、苦しいときの支えにもなった。

 しかし、そろそろ代えどきかも知れない。まだ少し時間は掛かりそうだが、もっとフラットな気持ちであの海へ行こう。

 今はそうしたいと思っている。黙祷はしない。